森下典子 エッセイ

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2003年8月―NO.11

  


ソースさえうまければ、
何もかもおいしい
ソースとは、そうゆう魔法の液体なのだ
ブルドックソースの
「ブルドックとんかつソース」











とんかつ
(画:森下典子)

「ねぇ、あんた急いでソース買って来てよ。せっかくトンカツ揚げるのに、ソースが切れてたの、うっかり忘れてた」
「うん、わかった」
 母に言われて、私は近所のスーパーまでひとっ走りした。トンカツにはソースがなくっちゃいけない。ここは絶対、醤油で代用するわけにいかないのだ。私はスーパーのいつもの棚にある、いつもの「ブルドックとんかつソース」を買って帰った。
 久しぶりのトンカツだった。しかも大好きなヒレカツである。新しい揚げ油の匂いと、こんがりしたキツネ色のコロモのカリカリ感が食欲をそそった。切れ込みは、すでにザクザクと入れてある。コロモの上に、ソースをどろどろーっとかけ、そのまま続けてキャベツの千切りの上にも、どろどろーっ。こっくりとした、艶のあるチョコレート色のソースは、コップの縁の表面張力みたいにトンカツの上で盛り上がり、それがキツネ色のコロモの中にゆっくり沈み込んでいく。
 ほどよくソースのかかった一切れを、箸でつまんだ。ソースの染みた部分はしっとりとし、ソースのかかっていない部分はカリカリとしている。これが私の理想だ。
 口に入る直前、ソース特有の甘い香りと、揚げ油の香ばしさが同時にやってきた。そして、
 サクサク……
 味覚って、いいもんだ。どんなに恋しい男でも、五年、十年後まで、会うたび、初めてみたいに胸ときめくことは、ない。慣れ親しむとは、新鮮さを失って、感激しなくなることでもある。だけど、味覚というものはちがう。「初めての味」や「貴重な味」に出会うことも感激だが、何度食べてもうまいものに、飽きることなくときめき続ける。「知ってるあの味」だから「な〜んだ、つまんない」ということはなくて、いつでも初めてのように、いや、慣れ親しんだ味だからこそ、「やっぱり、うまい!」と、何度でも惚れなおす。
 その日も、私は溜め息まじりに口走った。
「うまいっ」
 母は、
「でしょ。今日はね、ちょっといい豚肉だったのよ。柔らかいでしょ」
 と言った。確かに、「豚肉」も「パン粉」も「油」も「揚げ具合」もよかった。だけど、実は、何と言っても、うまさを決定したのは、ソースだった。

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