2011年6月―NO.101
「形あるものは何もなくなったが、酒造りの技術と心は残っている……」
何年か先の冬、祖父と父が好きだった、あの白い酒を味わう日が、またきっとくる。
酔仙酒造の「雪っこ」
三ヵ月前、新聞に衝撃的な写真が載っていた。へし折られた鉄骨が空に向かって突き出し、その先に、酒の四斗樽がひっかかっている。その樽には、大きく「酔仙」という文字が書かれていた……。
酒蔵では、そのシーズンの酒の仕込みを終えると、「甑(こしき)倒し」という行事を行う。仕込み期間中、米を蒸すのに使ってきた甑を倒し、杜氏や蔵人をねぎらって宴会が開かれるのだそうだ。
三月十一日、陸前高田市の酔仙酒造は、午後四時から「甑倒し」を始める予定だった。その直前の午後二時四十六分、未曾有の大地震が東日本を襲い、陸前高田は大津波に飲み込まれた。
新聞記事に、
「がれきの中に、看板商品『雪っこ』の缶が埋まっていた」
という文章があった。
「雪っこ」……。
祖父は生粋なる岩手の人だった。祖父が「正調・南部弁」で一生懸命しゃべると、くぐもった発音の耳慣れない言葉に、だんだんと熱がこもり、音楽的な抑揚がついてくる。私には外国語のようなものだ。何度も聞き返し、それでもわからないから、結局、曖昧な笑顔を浮かべているしかなかった。
祖父にとって「婿」である私の父は、神奈川県人である。父にも、祖父の言葉はほとんどわからなかったらしい。「通訳」なしには会話は成り立たなかった。それでも祖父は、婿である父を「横浜の」と呼び、何年かに一回、父が祖父の家に行くと、最上級の歓待をしてくれた。
祖父と父は、生前、何回会っただろう。たぶん、十回に満たなかったのではないかと思う。言葉のほとんど通じない「義理の父」と「婿」の間で、しみじみと長い会話がされたことなど、なかったかもしれない。
それなのに、父も祖父が好きだった。母と結婚したばかりの頃、田舎から祖父を招き、自分が勤めていた造船会社で建造中の大型タンカーを張りきって見せたらしい。大工だった祖父は、大型タンカーの鉄板の厚みをいちいち手で測り、
「○尺○寸だな……」
と、感心したように言ったと、父は嬉しそうに笑っていた。
男と男、大工と造船技師。言葉はあまりわからなくても、物作りをする者同士、何か通じ合うものがあったのかもしれない。
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酔仙酒造の「雪っこ」 |
もう三十年以上前のことだが、あれは、誰かの結婚式か、法事だったのだろうか……。両親と一緒に、田舎の祖父の家に行った。祖父は大いに喜んで、「おう、横浜の」と、父を呼んだ。親戚一同が集まって大宴会になり、一晩中盛り上がった。
宴たけなわになると、祖父はちょっと中座し、いそいそと嬉しそうに戻ってきた。手にしていたのは、やっぱり酒瓶だった。その酒について、祖父はなにやら熱っぽく父にうんちくらしきものを語り、そばにいた親戚のおじさんが、
「生きてる原酒で、この辺にしかないから、まあ呑んでみろ」
というような内容を、父に「通訳」した。祖父はその酒瓶を突きだし、父のコップに注いだ。
緑色の瓶の口から、とくとくと注がれたのは、とろりとした白い酒だった。私の目にそれは、お雛様の白酒か、カルピスのように、なにやらとてもおいしそうに見えた。父が手にしたコップの中で、白い酒の表面に、ぷくり、ぷくりと小さな気泡が上がってきた。
それを一口飲んだ父は、驚いたような顔で祖父を見た。祖父は、
(……そうだろう)
と言うように、自慢げに頷いて、にこにこしながら自分もコップを口に運んだ。
それが「雪っこ」だった。
祖父も父も亡くなって、私が四十歳近くなった頃、都内のデパートで「雪っこ」を見つけた。缶入りを何本か買い、父の仏壇に一缶供えた。残りは、私がいただく。
とろりとろりとグラスに注いだ……。白濁した表面に、ぷくり、ぷくりと小さな気泡が立ちのぼり、耳を澄ますと、ピチピチと「活性原酒」のささやきが聞こえる。
(いい音だな……)
なんだか、どぶろくのシャンパンみたいな気がした。
杯に口を近づけると、ふわんと麹が香り、一口ふくむと、甘酒のような口当たりである。だけど、アルコール度は高いのだろう。とろりとろりと呑んでるうちに、目までとろけ、だんだん幸せになっていく……。
震災の一ヶ月後の新聞に、酔仙酒造の社長の言葉が載っていた。
「形あるものは何もなくなったが、酒造りの技術と心は残っている……」
「雪っこ」は冬季限定の酒である。何年か先の冬、祖父と父が好きだった、あの白い酒を味わう日が、またきっとくる。
© 2003-2011 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.