2011年8月―NO.103
うまい……。実にうまい。
体が、「もっと、もっと!」と欲しがるのだ。
長榮堂の「富貴豆」
「赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた」
という北原白秋の詩があるけれど、あの詩の通りだと、時々思う。
たとえば、朝食に丸干しイワシを焼いて、頭から丸ごとむしゃむしゃ齧る。すると、骨や塩気や磯くささがぷんぷんして、そのおいしさが肉体の鉄骨にしみ入る気がする。そして、なんとなく、今日もたくましく生きて行ける自信が湧いてくる。
この間、旅先で、天然ものの鮎の塩焼き食べた。山の冷たくて清冽な流れの中で生きて来た本物の鮎である。尻尾に白く塩が浮いて、香ばしく焼きあがった身を齧ると、内臓がかすかに苦く、その苦さの奥に、清流の岩に生えた苔の、爽やかな緑色の香りがした。そんな天然の鮎を食べ終わったら、何だか居ずまいを正して、
「何物にも真っすぐに対峙して、ごまかしなく生きて行こう」
という爽やかな気分になった。
食べものの味というのは、その生き方や気質そのものの味なのだ。私たちは味を噛みしめながら体に取りこみ、そして食べたものの生き方や気質から影響を受ける。ビタミンとかミネラルとかタンパク質とか、栄養が分類され、その成分に名前が付いているけれど、要するに
「赤い実を食べれば、赤くなる」
のである。
だけど人は、誠実で堅実な味だけでは、飽き足らないから、時々無性に、不実でヤクザな味が欲しくなったりする。
たとえば、夜店のソース焼きそばには、「実(じつ)」がない。それがわかっていながらも、鉄板の上で焦げたソースの、コテコテに魅力的な香りに惑わされ、猛然と食欲をそそられる。そして、ガツガツ食べておなかがいっぱいになってしまうと、急に空しさを感じて、自分が夢中で食べた味に飽き飽きしてしまう。
昔のインスタントラーメンは、もっと薄っぺらなワルの味がした。お湯をかけると、酸化した油の癖のある匂いが部屋中にぷんぷんし、だけど皆、その匂いに夢中になって麺をすすった。今でもたまに、あのワルな匂いが懐かしくなって、 たまに食べることがあるけれど、復刻版のインスタントラーメンを食べると、わざとワルぶった味が付けてあるだけで、中身はいたって健全であることが、舌でわかる。
添加物が入っていれば、微妙にまやかしの味を感じるし、丁寧に出汁からとった手料理を食べれば、しみじみとした安らぎと慈しみの味がして、体に優しく浸みいる。
味はウソをつかないのだ。
長榮堂の「富貴豆」 |
ある時、長榮堂の「富貴豆」なるものを知り合いからいただいた。
「これ知ってる?」
「知らない」
「山形の名物でね、おいしいのよ」
「へえ〜」
箱の中をあけると、きれいなうぐいす色の煮豆がぎっしり入っていた。
煮豆であるから、「おかず」なのだろうと思っていたが、何気なくヒョイと一粒つまんで口に入れた。
「……!」
次は一つかみ、口に入れた。
「……!」
それから、がばっとつかんで、口に頬張った。
「……!」
止まらない。目をぱっちり見開いて、身を乗り出し、掻き込むように食べ始めた。
うまい……。実にうまい。
体が、「もっと、もっと!」と欲しがるのだ。
長榮堂の「富貴豆」 |
しっとりと柔らかく煮えて、豆の形がつぶれたものもある。ころころした豆、もろもろに崩れたもの、それらが混ざり合って、食べても食べても後を引く。
「豆」は、健全な命の味がする。「ジャックと豆の木」のように、にょきにょきと天に向かって伸びて行く無限の命のパワーの味が、小さな粒の宇宙にギュッと詰まっている。
「かしこい味だ……」
と、私は思った。豆にギュッと詰まったかしこさが、栄養の不足していた私の脳や神経に、肌や髪に、ずんずん行きわたっていくのがわかる。それがビタミンなのか、ミネラルなのか、タンパク質なのかは知らないけれど、必要としている部分に、必要なものが、運ばれて行き、もっともっと!と、体が叫んでいるのがわかる。
急須 |
ひとしきり体が、豆のかしこさに満たされたら、お茶をゆっくりと飲む。
富貴豆をたっぷり食べた後のお茶ほど、うまいものはない。私は、深蒸し煎茶が、急須の口から滴る最後の一滴まで丁寧にしぼって入れることをお勧めする。
美しいうぐいす色の煮豆の味に満たされた後で味わう深蒸し煎茶の味と香りは、神経を走って、心と体のすみずみにまで素晴らしい安息と充実感を行きわたらせてくれる。すると、全身が平和な緑色に染まった気がする。「青い鳥 小鳥 なぜなぜ青い 青い実を食べた」
© 2003-2011 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.