身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2011年9月―NO.104

値千金の、その一すすりを、私は忘れることができない。

三陸の海は、なんて豊かで濃厚な味がするのだろう。

あまりに奥深く、濃厚な味に、正座し直して、すすった。

味の加久の屋の「いちご煮」


私がアパートで独り暮らしを始めたのは、昭和六十三年の晩秋だった。場所は東京でも屈指の高級住宅街で、窓から外を眺めると、鬱蒼と木々の茂る庭園の向こうにスペイン風の白い漆喰壁や、豪邸の黒い屋根瓦がチラッと見え、駐車場には、アルファロメオやベンツが停まっていた。
 だけど、そんな高級住宅街にも、探せば安アパートはある。私が住んでいたのは、錆びた鉄の外階段をカンカンカンと上がる「○○荘」という名前の古いアパートだった。二階の外廊下沿いに三つの部屋が並んでいた。それぞれのドアの横に、洗濯機が置いてあって、廊下を通る時は、洗濯機を避けながら歩かなければならなかった。一度、二槽式の洗濯機のホースから水が流れ出て、外廊下が水浸しになったことがあった。ドアがドンドン!と叩かれたので出て見ると、ジャージの男性が憮然とした顔で「水出てますよ!」と言った。
 二階の住人は、奥の部屋がそのジャージの男性。その隣の真ん中の部屋が私。そして、一番階段の上がり口に近い部屋には、子供のいない三十代くらいのご夫婦が住んでいた。
 高級住宅街の夜は暗く、心細くなるほど静かだった。一番奥の部屋の男性は帰りが深夜だったが、階段の上がり口の部屋のご夫婦が夕方には勤め先から帰って、台所で煮炊きする音や、風呂のお湯をとる音が聞こえた。私はその物音に人の暮らしのぬくもりを感じていた。そのアパートで一日中原稿を書きながら、私は年を越し、昭和最後の正月を迎えた。
 昭和天皇のご病状は、いつ何が起こってもおかしくないと言われていた。私が仕事をしていた編集部でも「Xデー」はそう遠くないと囁かれていたが、なにせ、ずっと「昭和」を生きて、「昭和」しか知らないから、いつか「年号を跨ぐ」日が来るとしても、それは霧の彼方のいつかだと思っていた。
 昭和六十四年一月七日。その朝、私は知り合いのラジオのディレクターからの電話で起こされた。
「緊急記者会見が始まるようです……」
 その感情を抑えた声にハッとして、慌てて部屋のテレビをつけた。テレビの画面いっぱいに、「昭和天皇崩御」という文字が大きく映し出された時、心臓の鼓動をはっきりと感じた。あたりが真空になったような雰囲気の中で、小渕官房長官が「歌舞音曲を伴う行事」を自粛するよう訴えた。「平成」と、墨で書かれた新しい年号は、なんだか薄っぺらく、白々しいような気がして、
(えっ、そんな年号でいいのか?)
 と、私は思った。
 その瞬間から、日本中が動きを止めた。学校も会社も自粛。半旗を掲げる家もあった。商店街はシャッターを閉めたままだった。執筆中の連載は、一回お休みになった。テレビもCMはなし。昭和の歴史を振り返る特番が流れていた。
 その夜の最後のNHKニュースは忘れられない。十二時少し前、アナウンサーが言った。「間もなく昭和が終わります」
 そして、時計の針が重なった……。私は厳粛な気持ちだった。この瞬間、日本中が「元号」の日付変更線をいっせいに跨いだのだ。

味の加久の屋の「いちご煮」味の加久の屋の「いちご煮」
味の加久の屋の「いちご煮」
「トントン、トントン」
 ドアを小さくノックする音がしたのは、翌日の昼だった。戸を開けると、階段の上がり口の部屋の奥さんが立っていた。
「あのう、実家からたくさん送ってきたので、一つ召し上がりませんか?近所の店はみんな閉まってるし、お買い物できないでしょ」
 奥さんが手にしていたのは、見たことのない缶詰だった。「いちご煮」と、書いてある。
「これ、うちのほうの名物なんですよ。いちごって書いてあるけど、いちごじゃないんです。これに、紫蘇の葉っぱなんか刻んで浮かべると、すごくおいしいですよ」
 奥さんが「うちのほう」と言った時、軽く訛りを感じた。東北訛りがほっこりと温かかった。
「貴重なものを、ありがとうございます」
 薄い壁一枚隔てた隣の部屋の住人の気遣いがありがたく、「いちご煮」という耳慣れない名も気になった。ラベルを読んで驚いた。
「ウニとアワビの潮汁」と書いてある。

野いちご(草いちご)
野いちご(草いちご)
 でも、なぜ「いちご煮」なのか?
「汁の中のウニが、朝靄にかすむ野いちごのように見えるから」だと書いてあった。
 なんと美しい比喩だろう! ウニを「野いちご」に見立てるとは……。
 平成の最初の昼ごはん。私はさっそく、ご飯を炊いて、魚を焼いた。炊飯器がピーっと鳴り始めた時、「いちご煮」の缶詰を鍋にあけた。オレンジ色のくるんと丸まったウニが、潮の匂いの汁の中にごろごろしていた。オレンジ色の表面の粒々が、なるほど新鮮な野いちごみたいだ。アワビのひらひらした白い身が、いっぱい沈んでいる。何という贅沢三昧!ウニとアワビ、二大スター華の共演である。
 ゆらゆらとアワビが煮えて揺れ、ウニが霞んできた。熱い所をお椀によそい、細く刻んだ紫蘇の葉をファッと載せると、色が一瞬で変わった。えもいえぬ香りが一瞬、ゆらりとした。
「わぁ〜!」
 値千金の、その一すすりを、私は忘れることができない。三陸の海は、なんて豊かで濃厚な味がするのだろう。あまりに奥深く、濃厚な味に、正座し直して、すすった。汁椀の底のオレンジ色の「いちご」が、海賊船と一緒に海に沈んだ財宝のように見え、溜め息が出た。
 あれから幾度も「いちご煮」を味わった。そのたびに、平成元年一月の、あのアパートでの歴史的な冬を思い出す。

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