身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2011年10月―NO.105

塩が甘味を引きたてているのではない。

甘味が塩を引き立てている。

主役は「塩」の方だ。その塩味が、全体をまろやかに包んでいる。

パティスリーアンジェリーナの「旨塩ずんだシュー」


私が子供だった頃、「塩」といえば日本専売公社のビニール袋に青い活字で「食塩」と印刷された塩しかなかった。母がぬかみそにふりまく塩も、フライパンに一つまみ振る塩も、お葬式から黒い喪服で帰ってきた父が、

パティスリーアンジェリーナの「旨塩ずんだシュー」
パティスリーアンジェリーナの「旨塩ずんだシュー」
「おーい、塩もってきてくれー」
 と、叫んで玄関先にまく「お清め」も、全部、専売公社の塩だった。
 ある時、ヨーロッパで暮らしていた人が、
「日本ほど、塩のまずい国はないよ。海外ではいろんな塩を売っている」
 と、言うのを聞いて、私は「え?」と耳を疑った。時は昭和五十年代後半。日本はすでに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われる経済大国になっていた。世界中から日本に物が流れ込んで、わが国ほど豊かな国はないと思っているのに、「日本ほど塩のまずい国はない?!」
 私は「食塩」を、まずいと思ったこともないし、世の中に他の塩があることも知らなかった。まして、
「黒やピンクや、いろいろな色の塩がある」
 と、聞いた日には、「えーっ!!」と、たまげた。日本専売公社の食塩だけを塩だと思い、「塩は白い」と思っていた私は、その時、「開国」を経験した江戸時代の人たちは、こういう気持ちだったのかもしれないと思った。
 それにしても、「旨い塩」とは、一体どんな味がするのだろう?
 塩が自由化され、「赤穂の甘塩」や「伯方の塩」が出回り始めた頃、旅行に行った山形から、塩を買って帰ったことがある。万葉集の歌にも登場する古式製法で作られたという「藻塩」というものだった。まっ白いサラサラした塩ではなく、茶色い結晶の粒々だった。
 舐めてみると、塩辛さが違う……。「食塩」の味が、定規で引いた無機的な直線だとしたら、その塩の味は、人の手で描いた線だ。塩辛さが柔らかく、まろやかだった。
 キュウリを塩もみしたら、瑞々しい水分がほとばしってパリパリとうまい。目の色が変わった。その塩を手につけて、おむすびを握ったら、もう泣ける……。
「味の基本は塩なのよ。どんな料理でも、塩を一つまみ振ると、持ち味が引き出されるのよ」
 母は昔からそう言っていたが、その言葉を改めて納得した。以来、私は旅先で珍しい塩を見かけては、ぶら下げて帰るようになった。那覇の公設市場で、紀州の梅農家で、伊豆大島の土産物屋で、いろいろな塩を買った。
 今では、町の小さなスーパーの棚を見ても、「与那国島の海水」「鳴門海峡」「室戸海洋深層水」「フランス、ブルターニュ地方の海水」「アドリア海の海水」「ボリビアの岩塩」「パキスタンの岩塩」などなど、世界中の塩が、それぞれの「旨さ」や「効能」を謳っている。色も、褐色、ピンク、黄色、黒など、色とりどりで、かつての「食塩」は棚の端に追いやられている。
 先日、お寿司屋さんのカウンターで、醤油に手を伸ばそうとしたら、
「お客さん、このヒラメは、これで食べてください」
 と、淡い色のついた塩を出された。ヒマラヤの岩塩だった。海で泳いでいたものに、世界一高い山の塩をつけて食べる……。おいしかったけれど、凝り過ぎて、奇を衒った感じがしなくもない。これも日本人の得意な「ブーム」だなと思った。
 どこの塩が、どんな料理に合うか、などということは、私にはわからない。けれど、専売公社の「食塩」の塩化ナトリウムの味しか知らなかった時代を思えば、なんと多彩になったことだろう。塩の味は、長い歳月をかけて、山や森の成分が溶け込んだ味だ。その地方の成分がいっぱい含まれているに違いない……。

先日、デパートを歩いていたら「旨塩シュー」なるものを見かけた。石巻の「パティスリーアンジェリーナ」という洋菓子店のシュークリームである。その中に、「伊達の旨塩」という塩が入っているという。

パティスリーアンジェリーナの「旨塩ずんだシュー」パティスリーアンジェリーナの「旨塩ずんだシュー」
パティスリーアンジェリーナの「旨塩ずんだシュー」
 シュークリームに塩……?
 少々、抵抗を覚えながらもショーケースの前に立って見ていたら、「旨塩ずんだシュー」というものが目にとまった。
(あっ、「ずんだ」だ!)
 以前も、この欄に「ずんだ餅」のことを書いたが、私はずんだに目がない。美しい薄緑色の豆の、滋養を感じさせる濃厚な味。それが、シュークリームの中に入ったら、どうなるのだろうか? 
 思わず買って帰り、さっそく家で広げた。「旨塩ずんだシュー」と書いたセロファンを開けると、シュー皮の上に、麺のように細いパイ生地をすだれ状にかぶせて焼いてある。「パイシュー」である。
 こんがりと黄金色に焼けた雲のような菓子を一口齧ると、バターの香ばしさがふわんと香り、中の空洞に、生クリームがいっぱい詰まっている……と思った時、舌に「塩」を感じた。
 塩が甘味を引きたてているのではない。甘味が塩を引き立てている。主役は「塩」の方だ。その塩味が、全体をまろやかに包んでいる。
 塩気の生クリームがふわふわし、そのホイップ感も実に軽やかだった。そして、薄緑色を帯びたクリームの中から、ずんだの風味がやってくる。ずんだと塩気……。この「おつまみ系」の組み合わせが、シューの中身として、不思議によく合う。本当は甘いカスタードクリームが苦手で、中身よりシュー皮が食べたい私は、「旨塩ずんだシュー」が、すっかり気にいってしまった。皮を少し千切っては、中のクリームをのせ、口に入れる。これは、大人のオツな食べ物である。

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