身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2012年1月―NO.107

カリッと乾いた表面の素朴な触感が、頭の中にザクザクと響く。

中のふわふわ。そして、甘みとアーモンドの香ばしさ……。

大麦工房の「大麦ダクワーズ」と「大麦グラスロール」


 

うちは木造の古い家である。地震が大嫌いだった父が、くどいほど筋交いを入れさせて頑丈に作った家だったが、築五十三年もたってあちこち痛んできたのか、台風で暴風が吹きつけると、ガタガタ揺れるようになっていた。 阪神大震災が起こって耐震基準が見直された後、区役所の耐震診断を受けたら、案の定、
「開口部が多くて、壁面が少ない。震度5強で大倒壊の恐れあり」
 と、判定されてしまった。
 そうなると、母と二人、居間でくつろいでいても、心の底のうんと下の方で「地震が来たら……」と常に一抹の不安を感じ続けることになる。家に不安があると、人生の土台がぐらぐらしているようで落ちつかない。
 そこで四年前、思いきって、ある建設会社に耐震補強工事をお願いした。太い鉄骨で家を支え、耐力壁で補強し、施工会社の部長さんは、
「ご安心ください。これで大きな地震が来ても家が倒れることはありません。むしろ家の中にいた方が安全です」
 と、太鼓判を押してくれた。私と母は、なんだか大船に乗ったような気持になった。
 ふだんは忘れて暮らしているが、台風の暴風に晒されると違いがはっきりわかるようになった。家が揺れなくなった。そして、地震があるともっと明らかに感じた。「震度3」の揺れが「震度1」くらいに軽減されていた。
 そして、三月十一日。その日、私と母はデパートの八階の催事場にいて「震度6」の大きな揺れを経験した。帰ろうにも大渋滞に巻き込まれ、なかなか帰宅できなかった。隣の人のワンセグ携帯から、最初に聞こえて来たのは、「九段会館の天井が崩落」というニュースだった。 築五十三年のわが家がどうなったかと思うと胃がきりきり痛くなった。夜になってやっとわが家に辿り着き、私は鍵を開ける手ももどかしく、家に飛び込んだ。わが家はいつもの古ぼけた姿のまま、棚の物一つ落ちていなかった……。テレビで東北地方の惨状を知ったのは、その後だった。
 大震災の余震も収まらず、原発の事故もあって、春が来たことも感じられないまま四月になった。ある日、玄関にひょっこりと作業着姿の男性が立っていた。施工会社の部長さんで、家の点検をしてくれた。
「まったく異常ありません。どうぞご安心ください。うちが工事を担当した他のお宅も、茨城県で瓦が二枚落ちた家があっただけで、全部無事でした」

いただいた包み
いただいた包み
 そう言って部長さんは、
「これ、女房の実家の方のお菓子です。召し上がってください」
 と、包みを置いて帰って行った。その「ご安心ください」という言葉の、何という温かな響き……。守られているという安心感……。
 いただいた包みを開けた。「大麦ダクワーズ」という包みが並んでいた。
「ダクワーズ」という名前は、洋菓子の中でも、私が最も「おいしそう」だと感じる名前である。メレンゲを焼いた生地の間に、アーモンドクリームを挟んだ焼き菓子で、表面はごつごつとしているが、実に軽い。食べると、表はざっくりとした歯ごたえで、中はふんわりとしている……。フランスの「ダクス地方」という所で生まれた伝統菓子で、そのまま「ダクス地方の」という意味だそうだが、「ダクワーズ」というゴッツい音の響きが、焼いたメレンゲのごつごつした表面を表現しているようで、名前を口にするだけで、あのざっくりとした食感を思い浮かべることができる。
 名前がおいしそうな洋菓子は、味もおいしい。いや多分、私たちはその、おいしそうな名前を食べているのだろう。


大麦工房の「大麦ダクワーズ」(右)と「大麦グラスロール」(左)
 たとえば、マカロン、カヌレ、スフレである。ここ数年流行っている色とりどりのマカロンは、ダクワーズと同じメレンゲの焼き菓子だが、「マカロン」という名前のかわいらしさと、コロンとした形と色がぴったり合ったので、ここまで愛される洋菓子になったに違いない。
 ボルドーの女子修道院で昔から焼かれていたという、溝のついた小さな型に入れたケーキは、型に蜜蝋を塗ってオーブンで焼く。「カヌレ」と呼ばれるこの菓子は、食べてみれば味にどうという特徴はないにもかかわらず、表面が茶色く香ばしくて、テラテラと光っており、その照り具合と、「カヌレ」という名前の響きが、なぜか無性に食べてみたい気持ちをそそる。
 メレンゲにチョコレートやレモンなどで味をつけ、カップに入れて焼いた「スフレ」は、ふくらんでカップから溢れ、吹くとフワフワと揺れる。「スフレ」という名を口にすると、そのしなやかな響きの美しい頼りなさが、メレンゲのフワフワを連想させて、口に中に思わず唾液がたまる。
 言葉って不思議だ。外国語だから、意味も違うはずなのに、その言葉を口にすると、おいしさまで伝わって来るのだ。
 そんな「おいしそうな名前」の中でも、一番好きな「ダクワーズ」である……。私は紅茶を入れ、部長さんからいただいた「大麦ダクワーズ」を口に入れた。カリッと乾いた表面の素朴な触感が、頭の中にザクザクと響く。中のふわふわ。そして、甘みとアーモンドの香ばしさ……。
 そのおいしさは、部長さんの「ご安心ください」という言葉の温かさと一緒に、震災後の不安感を癒してくれた。

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