2012年4月―NO.110
「茂助だんご」を食べるたび、
私は「団子の美学」とでも言うべきバランスの妙を感じる。
築地魚がしの「茂助だんご」
昔、取材で一ヵ月ほど船に乗ったことがあった。客船ではない。日本とサウジアラビアの間を航行し、石油を運ぶ大型タンカーである。当時は、イラン・イラク戦争のさなかだった。ペルシャ湾を航行するタンカーが攻撃され、
「ホルムズ海峡波高し」
と、ものものしい見出しが新聞の一面に躍っていた。
駆け出しのフリーライターだった私に、ある出版社から、
「ペルシャ湾に行くタンカーに乗って、ルポを書きませんか」
という仕事が舞い込んだのは、一九八七年の秋だった。
「安全は保証できません。断ってもいいんですよ」
と、編集者は言った。けれど、フリーライターの世界では、「来た仕事は絶対断るな。断ったら、二度と来ない」と、言われている。私は即座に、
「行きます」
と、引きうけた。正直言えば、日本にいて「戦場」の恐怖をリアルにイメージすることはできなかったし、何よりチャンスを逃すことの方が怖かったのだ。
「いい度胸ですね。もし僕があなたの恋人だったら、引き止めますけどね」
そう言いながらも、編集者は恋人ではないから引き止めはしなかった。けれど、いよいよ出発の日が近づいて来ると、心配になったのだろう。
と、親切にも連れて行ってくれた。
空が高く晴れ渡った朝だった。場外市場のにぎわいを通り抜けたところに波除神社は鎮座していた。小さい神社だけれど、鳥居をくぐり境内に入ると急に喧騒が遠くなった。手を合わせ、旅の安全と仕事の成功を祈った。編集者が、
「船に乗るので、水難除けのお守りをいただけますか」
と、社務所に声をかけると、白い着物の宮司さんらしいご老人がにこにこして、
「はいはい、それでしたらもう、このお守りを持っていらっしゃれば、絶対に大丈夫です。うちの娘が外国へ行く時にも、いつもこのお守りを持たせています」
と、白いお守りを手渡してくれた。
「森下さん、これで大丈夫です」
と、編集者も頷いた。境内にある枝垂れ銀杏の黄色い葉が、風でいっせいにサワサワと気持ちよく鳴った。……その時、なんだか本当に「効き目」がありそうな気がした。
果たして、ペルシャ湾の乗船取材は安全のうちに終わり、仕事もうまく行った。それ以来、波除神社は、私の「パワースポット」になった。
私はあれから船旅をしていない。けれど、何度か人生の荒波がやってきた。
(もうダメかもしれない)
と、不安になった時、私は築地場外市場の人込みを歩いて、波除神社にお参りし、
「この荒波を乗り越える力をください」
と、お願いした。
お参りをすませて境内を出ると、なんとなく気分が晴ればれして、足取りも軽くなる。私は駅とは反対の方向へ足を向ける。向かう先は「茂助だんご」である……。
築地魚がしの「茂助だんご」 |
日本橋に魚河岸があった頃から続く老舗で、元々は魚屋だったが、本業とは別に作っていた団子が評判になり、団子界の永遠のベストセラーとなった。朝から河岸で働く人たちが来ては団子で一息ついて、昼過ぎに行っても売り切れている。
「だんご三兄弟」のモデルになったという餡の団子には「こし餡」と「粒餡」があり、私はこの「こし餡」がたまらない。一見、餡子をぼってりとまとって、しつこそうに見えるが、ひとたび口に入れると、これが実にさっぱりとして、上品な甘みがサラーっと舌に消えていく。コシヒカリを挽いて作るという団子は、むちっとして歯ごたえがよく、ついつい後を引いて、とても一串では終われないのである。
醤油団子がまたおいしい。世の中には、甘辛いタレをからめた「みたらし団子」が多いが、ここのは、あぶって軽く焼き目のついた焼き団子を、さっと醤油につけたオーソドックスな「ザ・醤油団子」で、その香ばしさ、しこっとした団子の食感には、心からホッとくつろげる……。
「茂助だんご」を食べるたび、私は「団子の美学」とでも言うべきバランスの妙を感じる。餡だんごは一串に三つ、醤油だんごは一串に四つ並んでいる。餡の串は短く、やや太い。一方、醤油の串は、それより長く細いのである。そして、大き過ぎず、小さ過ぎない、やや押しつぶれた団子のこの形。
……あぁ、なんだか小腹がすいてきた。今日は、波除神社にお参りしてパワーをもらい、「茂助だんご」を買ってこよう。
© 2003-2012 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.