2012年8月―NO.114
口に入れると、餡子の上品な甘みと、
もちもちとした求肥の食感が混じり合い、
口いっぱいに優しい味が広がった。
松寿軒の「虫の音」
この夏、空がやけにきれいだった……。スカッと晴れた空に、シュークリームのような白い雲がむくむくと浮かんで、絵に描いた「南のリゾート」の空みたいだった。その空を見上げて、
と、暢気に言っていた私だが、あまりにも連日、空が青いので、だんだん、
(これはヘンだ……)
と、思い始めた。そのうち、身の回りで、
「夏って、こんなに空が青かったっけ?」
「空がいつもと違うね」
という声を耳にするようになった。
先日、テレビで気象予報士が、
「日本は完全に亜熱帯化しましたね」
と語るのを聞いて、私は「やっぱり……」と頷いた。そうなのだ、これはブーゲンビリアの似合う青空だ!
毎年八月の一ヶ月は、「お茶」の稽古が休みになる。九月になると再開するけれど、九月も半ば過ぎまで猛暑は続く。
なにせ、私が通っている先生の家の稽古場にはクーラーがない。先生は庭のつくばいの水栓を多めに開けてくださるけれど、涼しげな水音も気温三〇度を超す熱波ではさほど効果がない。稽古場でも水屋でも、扇風機がブンブンと首を振って、風を送っているけれど、炭火のおこった風炉の前に座ると、とめどもなく汗が流れる。
しかし、そんな猛暑の中でも、お茶の世界には早々と「秋」が来る。暦が秋になったら、地球が温暖化しようが、日本列島が亜熱帯化しようが、秋なのである。
九月になって、久々に床の間を見ると、
「清風萬里秋(せいふうばんりのあき)」
という掛け軸がかかっている。すると、不思議なもので、場の空気がさーっと変わる。庭では蝉が切迫したように鳴いていても、その掛け軸を見ると、秋のひんやりと澄んだ空気と、原っぱで銀色に輝くススキと、どこまでも高い空を思いだす。この猛暑の向こうには、寂しくなるほど爽やかで、人恋しくなるほど美しい季節が待っていることを思い出す。
籠の花入れには、むくげ、ホトトギス、そして、スイーッとかぼそい水引が入っている。
ブーゲンビリアが咲きそうな亜熱帯の暑さの中でも、楚々とした秋の草花たちはけなげに咲いて、次の季節の先触れをしてくれる。そんなことを思って、自分もちょっと居ずまいを正したりする。
そんな酷暑の峠をやっと乗り越えたと感じるのは、例年、
「水掬月在手(みずをすくえばつきてにあり)」
という掛け軸を目にする時である。この掛け軸を見ると、みんな、
「ああ、もう仲秋の名月ね」
と、ホッとした様子で微笑み合う。昼間は猛暑の日があったとしても、仲秋の名月になれば、夜はぐっと過ごしやすくなる。
そんな時、菓子器の中から現れるのが、久しぶりの餡子の生菓子である。お茶の主菓子も、六月頃からは餡子ものが少なくなって、見た目にもひんやりと涼しげで、喉越しの良い寒天のものが多くなる。六月、七月は寒天をツルンと食べ、八月の夏休み中は、家でもっぱら、アイスクリームや氷などを食べて暮らした私は、いつも九月初めに和菓子を見ると、正直、
(うわぁ〜、この暑さに、餡子かぁ)
と、胃に負担を感じる。なかなか手が出ず、
「どうぞ召し上がれ」
と、促されて、やっと口に運ぶ。
松寿軒の「虫の音」 |
この季節の和菓子の中でも忘れられないのが、京都・高台寺の観月茶会に出される、松寿軒の「虫の音」である。コロンとまん丸くて黄色い、満月のような求肥で、表面に、か細い草がツイーッと二筋描かれている。その草の重なった向こうに、何やらぼんやりと影が見える。
影の正体は小豆の粒。草むらの、姿の見えない「虫の音」を、求肥越しに、ぼんやりとした影で表現するとは、なんと心憎い意匠だろうか……。
楊枝で求肥を押し切ると、中は白餡である。口に入れると、餡子の上品な甘みと、もちもちとした求肥の食感が混じり合い、口いっぱいに優しい味が広がった。
だけど、求肥の向こうにあるはずの小豆の粒は、なぜか跡形もなく消えていた。まるで、リリリリと鳴いているけれど、どこで鳴いてるのか姿の見えない虫のようだ……。そんなことを思っている傍らで、
「仲秋の名月まで来ればもう大丈夫。涼しくなるわよ」
「これからいい季節ね」
と、話す声が聞えた。
厳しい暑さも、やっと峠を越えた。やさしい季節が、もうすぐそこまで来ている……。昔の人たちも、そう思いながらお月見をしたのだろう。……そう思ったら、なんだかちょっと涙がにじんだ。
© 2003-2012 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.