身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2012年10月―NO.116

久々に、土鍋を開けると、牛蒡や鶏肉、椎茸、栗……

一つ一つの具を味わいながら、あの横川駅のおじぎを思い出した。

おぎのやの「峠の釜めし」


もう四十年近く前のことだ……。私の通っていた女子大では、夏休みに一学年の学生全員、軽井沢の寮で合宿し、セミナーを受けるのが恒例になっていた。私もそのセミナーを受けたはずである。が、一体どんな授業だったのか、全く記憶がない……。思い出すのは、軽井沢へ向かう信越本線の車内で、ボックス席の向かいに座った令ちゃんが、
「横川の釜めしを食べようね」
 と、はしゃいでいたことである。
 女子大の学生の半分は、受験戦争に傷つくことなく付属中学高校からエスカレーター式に進学してきた人たちで、令ちゃんもその中の一人だった。チェックのシャツに、ストーンウォッシュのブルージーンズ。指には、大きめのスクールリング。令ちゃんはボーイッシュで、オリビア・ニュートンジョンのファンだった。夏休みは毎年、別荘でご両親と過ごすとかで、軽井沢をよく知っていた。


おぎのやの「峠の釜めし」
 横川駅が近づいてくると、車内の人たちがざわざわし始め、お財布を手に通路を出口の方に向かう。
「典ちゃんの分も、買ってきてあげる」
 令ちゃんはそう言って、颯爽と出口へ向かった……。
 横川から軽井沢へ向かうには、これから碓氷峠を越えなくてはならない。信越本線はこの横川駅で補助機関車を連結するため、しばし停車する。ドアが開くと、乗客たちが次々にホームに降りて、同じ方向に小走りに向かう。そこには、あらかじめ約束していたかのように、茶色っぽい制服制帽の販売員さんと、台車に積み上げられた駅弁が待っていた。台車の周りに人だかりができ、お札と釣銭が慣れた手つきで素早くやり取りされ、次々に駅弁が手渡されていく……。
 令ちゃんは駅弁と、ビニールの容器に入ったお茶を抱え、ボブカットの髪をなびかせながら戻ってきた。
「できたてだよ〜」
 「峠の釜めし」は、ずしっと重く、膝に載せるとほかほかした。さっそく紐をほどき、掛け紙をとると、ちゃんとした土鍋に、素焼きの蓋が乗っている。その蓋をとると、栗、鶏肉、椎茸、ウズラの卵、筍、ささがき牛蒡、紅ショウガ、アンズなどが、みっしりと並んでいた。
「わぁ、おいしそう」


おぎのやの「峠の釜めし」
「いただきまーす」
 機関車の連結が終わったのだろう。列車が静かに動きだした……。ふと見ると、過ぎ去るホームで、販売員さんたちが横一列に並び、一斉に帽子を脱ぎ、こちらに向かって深々とおじぎするのが見えた。
 椎茸を口に運ぶと、味がよくしみておいしい。栗はぽくぽくとしてうす甘く、秋の山の匂いがする。鶏肉もいい味で、身が締まっている。具の一つ一つに、繊細な味付けがされていた。
 具の下から、炊き込みご飯を掘り出して、口に運ぶと、具の味と、出汁がほど良くしみていて、箸が進む。
 お釜の形をした漬物の容器が付いていた。その中にも、小茄子、わさび漬け、小梅、山牛蒡、刻みキュウリなど、とりどりの漬物が詰め合わされていて、何とも豊かである。炊き込みご飯の合間に、ツーンとくるわさび漬けや、カリカリする刻みキュウリで合いの手を入れながら、一気に食べきった。米粒1つ残さず、空になった土鍋に素焼きの蓋をして、再び紐をかける。
 すると、軽井沢はもうすぐだった……。

大学を卒業後、私は週刊誌のライターをしていたが、二十八歳の冬、取材で軽井沢に向かった。横川駅が近づいて、「釜めし」を買おうと立ちあがった時、ふと、昔、向かいの席で「典ちゃんのも買ってくる」と、言った令ちゃんを思い出した。卒業後、共通の友だちの家で、一度だけ彼女に会ったことがあった。彼女は、オリビア・ニュートンジョンが大好きなボーイッシュな女子大生の雰囲気を残したまま、幸せな妻となり、小さな男の子のお母さんになっていた。


 
 観光シーズンではなかったせいか、十年ぶりの横川駅はひっそりとして、販売員さんも一人しかいなかった。私は軽井沢へ向かう車窓に、お茶を置き、「横川の釜めし」を一人で広げた。電車が動き出すと、ホームで販売員さんが一人、お辞儀をしていた。
 長野新幹線の開通に伴って信越本線の横川―軽井沢が廃線になり、横川駅が終着駅になったのはそれから十三年後。廃線の日、最後の信越本線が、横川駅を発車する様子をニュースで見た。……走り始めた車窓から、駅のホームが見える。そのホームに、釜めしの販売員さんたちがずらっと並び、肩から斜めに、「ありがとうございました」というタスキをかけて、サッと帽子をとり、深々と頭を下げていた。なんだか胸がいっぱいになった。
 その数年後、令ちゃんは病気でこの世を去った。私はお通夜で遺影を見るまで、とうとう彼女に会わないままになったが、遺影には、やっぱりどこかボーイッシュな雰囲気が残っていた……。
 先日、デパートの駅弁大会で「峠の釜めし」が販売されると聞いて、買いに出かけた。「十二時から販売」と聞いて、早々に十一時半から並び、五分で完売した。
 久々に、土鍋を開けると、牛蒡や鶏肉、椎茸、栗……一つ一つの具を味わいながら、あの横川駅のおじぎを思い出した。

峠の釜めし本舗おぎのやのホームページ

© 2003-2012 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.