2012年11月―NO.117
特別変わったものがはいっているわけではない。ラム酒に漬かったレーズンだけだ。
それなのに、パウンドケーキの本当のおいしさというものを初めて知った気さえする。
ゴンドラの「パウンドケーキ」
その時代の男性の例にもれず、私の父は、原節子が好きだった。父の「永遠のマドンナ」である。
父は実家のある横須賀から東京の会社まで、横須賀線で通勤していたが、その沿線はまさに小津映画の世界であった。大船の松竹撮影所があり、北鎌倉駅の長い生垣のあるホームは、映画の舞台になっていた。
『晩春』『麦秋』の中で、原節子は適齢期をそろそろ過ぎようとしているのに結婚を逡巡している娘であった。笠智衆が演じる父はそんな娘に、朴訥とした口調で語る。
「おまえも、いつまでもいかんわけにはいかんだろう」
「でも、おとうさんはどうするの?わたし結婚しないで、おとうさんとこのままふたりで暮らしてもいいのよ」
そんな娘を父は、
「はじめから幸福な結婚などない。幸せは作ってゆくものだ。母さんだって、台所の陰で泣いとった」
と諭す。
そんな古き美しき家庭の父娘像に憧れてでもいたのだろうか。父は日曜日になると、まだよちよち歩きの私を横須賀線に乗せ、北鎌倉を散歩したり、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内で、鳩の豆を買って遊ばせた。
子供の頃、どうして私の名前を「典子」にしたのかと父に聞いたことがあった。その時父は、
「『典』っていう字は、安定感があって形がいいからだよ」
と答えた。十数年後、私は大学生になって、ある時、『晩春』『麦秋』を見た。原節子のことを、父親役の笠智衆が「のりこー」と呼んでいるのを見て、アッと思った……。
しかし、その頃の私には小津安二郎の映画というものが全然わからなかった。結婚をためらっていた娘がやっと結婚したり、田舎の年老いた両親が、東京の子どもたちに会いに来たり、どこにでもある家族の話だ。モノクロの暗い画面の中で、どうということのない日常の会話が淡々と続く。私は退屈で退屈で、たまらなかった。
その、ごく普通の人々の、どこにでもある人生の物語の奥行きに、ハッと胸を突かれ、そこに人生のすべてがあると思うようになったのは、四十半ばになってからである。私は、原節子の演じた「のりこ」と違って、ついに嫁に行かず、父は、私の花嫁姿を見ることなく、この世を去っていた……。
ゴンドラの「パウンドケーキ」 |
話は変わるが、先日、お茶の先生から、丸い缶に入ったパウンドケーキをいただいた。パウンドケーキと言えば、結婚式の引き出物などでもよくいただくが、正直な話、ぼそぼそ乾いていて、あまりおいしかった覚えがない。だから、パウンドケーキと言うのはどれも同じようなものだろうと思っていた。
缶から取り出すと、丸いスポンジの裏側にレーズンがびっしり見えたが、他にはナッツもフルーツも入っていない。
「ケーキいただいたのよ。一緒に食べない?」
と、茶の間でテレビを見ている母に声を掛け、セロファンをはがして、ナイフを入れた。その時、鼻先に、むわんと洋酒の香りがよぎった。
切り分けて皿に載せ、母の前に置き、台所でお茶を入れていたら、
「これ、おいしい!」
と、声がした。いつもケーキを少し残す母が、珍しく大きな声で何度も言った。
「ねえ、おいしいから、早く食べてごらんよ」
一見どうということのない、昔ながらのパウンドケーキである。
「どれどれ……」
フォークで押すと、意外なほどしっとりとして、スポンジがもろっと切れた。その一切れを、ひょいと口に入れた。
「………!」
なんだろう、この美しい香りと甘さのバランス、しっとりとした食感。
「おいしいでしょ?」
「うん、すごく。私、もう一皿、食べようかしら」
「私にも少しちょうだい」
特別変わったものがはいっているわけではない。ラム酒に漬かったレーズンだけだ。それなのに、パウンドケーキの本当のおいしさというものを初めて知った気さえする。
今日初めて食べたその味に、私は、昔からずーっと変わらぬものを感じた。派手じゃないけれど上質で、シンプルだけど奥行きがある……。
改めて包装紙を見た。「ゴンドラ」という名前は聞いたことがあった。そういえば、手土産にすると喜ばれる洋菓子として、雑誌で有名人がパウンドケーキを紹介しているのを何度か目にした覚えがある。パンフレットに目をやると、「創業は昭和8年」「モットーは、知られているケーキを、より美味しく作ること」という言葉が目に入った。
それから私は何度か、ゴンドラのパウンドケーキを取り寄せているが、このケーキを食べるたび、ふっと、
(原節子みたいだ……)
と思うのである。『晩春』『麦秋』の原節子だ。白いソックスを、足首のところで折りたたんで履いているような気がする。
クラシックな正統派で、垢ぬけていて大人っぽい。育ちがいいけど、親しみやすい。そんなゆかしい味がする。
© 2003-2012 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.