2013年1月―NO.119
黒い奈良漬を味わった時、思った。
(「コク」とは、この味かもしれない……)
そのコクを見極めるように食べ続けていると、
やがて目のあたりがボーっとして、いい気持ちになってきた。
今西本店の「純正奈良漬」
「いま、ひとたびの奈良」
JR東海のコマーシャルのテーマ曲「ダッタン人の踊り」を耳にするたび、いつも何かに呼ばれているような胸躍る思いがするのに、日々雑事に取りまぎれて、なかなかこの目で奈良を見ることはできなかった。
その奈良を、三十年ぶりに旅した……。
初めて修学旅行で行った時から、私は薬師寺が好きだ。薬師如来の脇にたたずむ日光・月光菩薩の、ゆるやかに腰をくねらせた豊満な肉体を見ると、その昔、シルクロードを通ってはるばる西の国から美しいベリーダンスの踊り子たちが日本に渡ってきていたのにちがいないと思う。きっと、奈良の仏師たちは、生きている菩薩をモデルに、この像を彫ったのではないか?……そんな空想をかきたてられる。
法隆寺も興福寺も東大寺も、京都の寺社とはまるで趣が違っている。奈良には、まだ日本が日本になる以前の「源流」というのか、大陸文化をそのまま輸入したスケールの大きさと素朴さがある。
今は千年の風雪にさらされて、まるで最初からそうだったかのような木地の色でひっそりと建っているが、ここが都だった時代には、太極殿、朱雀門を始め、主だった建築物はすべて目の覚めるような朱色と鮮やかな緑に塗られ、唐の長安そっくりの華やかな都市だったという。奈良の枕詞である「あをによし」は、緑(あを)と朱(丹)のきらびやかな街並みをたたえた言葉なのだそうだ……。
そんな奈良の国宝を巡りながら、食事どころに入る。すると、お膳と一緒に小皿に盛られて登場するのが、名物「奈良漬」である。
実は、私は奈良漬が苦手である。漬物は大好きで、たくあん、ぬか漬け、味噌漬、野沢菜漬け、すぐき……と、子どもの頃からなんでも食べて来たが、奈良漬は、どこがいいのかさっぱりわからない。
飴色に透けていて、カリカリ食べると、たちまちモワーッと酒の刺激が向かってきて、鼻に抜ける。……酒は嫌いではない。だけど、漬物がモワーッとするのはイヤなのである。
駅弁など食べていて、隅っこの方に添えてあった漬物を、味噌漬かなんかだろうと思ってひょいと口に入れ、カリっと噛んだらモワーッと来る。
今西本店の「純正奈良漬」 |
そういう時、私はいまいましい思いでお茶をすすりながら、
(一体、奈良漬ってどこがいいんだろう?こんな味の食べもの、好きな人って世の中にいるんだろうか?)
と、訝しんだ。自分がそう思っているせいなのか、実際、家族や親戚に聞いてみても、奈良漬が好きだと言う人は一人もいない。みんな、この世から奈良漬が消えたとしても、別に困らないという顔をしている。
これほど不人気な漬けものは、他にないに違いない……。そう思いながら五十六歳まで生きて来た。
ところが……。あれは、奈良旅行の二日目、名物の「茶がゆ」を食べた時だった。胃に優しく、香ばしいかゆをすすり、小皿の上の、薄切りにした飴色の漬物を一切れ、ひょいと口に入れた。カリっと噛んだ途端、モワーッと来た。
(あ、奈良漬だ)
ところが、これが悪くないのである。コリコリ噛んでいると、味噌の風味に似た、えもいわれぬ深い味がじわじわ浸み出てくる。
もう一切れ口に入れた。すると、あのイヤだった「モワーッ」が突然、ワサビや生姜の辛味のような、大人の刺激に思えた。
その途端、わかった。
わかってしまえば、一瞬である。
その時から、奈良漬に対する私の嫌悪は、コペルニクス的に変わった。
「いいねえ。奈良漬っておいしいねえ〜」
ある時、知り合いに、
「五十六にして、奈良漬の味に目覚めたのよ」
と、話すと、後日、その人が、
「私はいつもこれです」
と、送ってくれたものがある。それは、「今西本店」の刻み奈良漬であった。
「人工甘味料、合成保存料、人口着色料等は一切使用せず、約3年から10年に亘って漬け、その間5、6回漬け替える昔ながらの手造りで造っております」
「日本で唯一『純正』の呼称が許された今西本店の奈良漬」
と、書いてあった。
中身を広げてびっくりした。黒い。真っ黒い。東大寺の大仏か炭のように黒いのである。刻まれた真っ黒い漬物が、茶褐色の酒粕にまみれていた。
少しつまんで、恐る恐る口に入れると、ふわーっと八丁味噌に似たいい香りに包まれ、カリカリという音と一緒に、とてつもなく深い味がやってきた。それは味噌に似ているが味噌ではない。醤油でも塩でもない。なんだろう、このしょっぱいような濃厚さは?
「コクのある味」という言葉がある。私は「コク」とは何か、その本当の意味を知らない。知らないまま、「コクがある」と、ちょくちょく言っている。実は、世の多くの人々も、意味がわからないまま「このコクがいいね」などと使っているらしい。
だが、黒い奈良漬を味わった時、思った。
(「コク」とは、この味かもしれない……)そのコクを見極めるように食べ続けていると、やがて目のあたりがボーっとして、いい気持ちになってきた。
© 2003-2013 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.