2013年5月―NO.123
錦玉の透明度が高く、ほのかに青い。
光の加減で、微妙に紫を帯びているようにも見える。
その色が、何とも涼やかでひんやりと見える。
その美しい青を透かして、かすかに白餡が見えている。
こまきの「あじさい」
何年前だったか、市バスに乗って隣の町で降り、ぶらりと散歩したことがあった。梅雨の晴れ間で、道のあちこちに青や水色のあじさいがこんもりと咲いていた。
竹やぶのそばに、大きな古いお寺があって、門が開いている。私は引き込まれるように門を入り、踏み石伝いに奥へと向かった。お地蔵様の並んだ参道に薄紫のホタルブクロが揺れて、池にはスイレンが浮かんでいる……。スイレンの池を過ぎ、しばらく歩くと、突然、広い境内に出た。
見ると、境内に大勢の人が集まり、全員がうっとりした面持ちでこちらを見ている。
(……何だろう?)
何気なく後ろを振り返った途端、
「うわーっ!」
私は声を上げ、思わずのけぞった。
後ろの斜面、すべてがあじさいの花。そこはあじさいの山だったのである。水色、柔らかな白、鮮やかな青、青紫、赤紫……。それらが山の斜面をこんもりと埋め尽くし、見渡す限り淡い優しい色で覆われていた。
茫然と見とれている私に、
「初めてですか?このあたりでは『あじさい寺』って呼ばれている名所でね、遠くからも見に来られる方がいらっしゃるんですよ」
と、見物していたおばさんの一人が話しかけてくれた。
「あじさい寺」と呼ばれる場所が全国にいくつくらいあるのか知らないが、ここもその一つらしい。
「すごいですねえ。私はすぐ隣の町にいるのに今日初めて知りました」
「見事でしょ。私はね、鎌倉よりきれいなんじゃないかと思うのよ」
さっきのおばさんは地元の人らしい。全国的に知名度の高い鎌倉を相手に、地元の寺を贔屓する。
その時、後ろの方で、
「なんだっけ、ほら、長崎に来た外人さんよ。その人が、あじさいに奥さんの名前を付けたんだって」
と、声がした。
「そうそう。オタクサ。たしか、オタクサよ」
あじさい |
シーボルトには、長崎に妻「お滝」と、幼い娘「おいね」がいたが、国外追放された上に鎖国の壁に阻まれ、妻子と離れ離れになってしまったのである。
母国に帰ったシーボルトは、ヨーロッパに日本を紹介する本を数多く書き、その中の『日本植物誌』で日本原産の花、あじさいに「オタクサ」と名を付けた。
「オタクサ」とは何か……。
シーボルトの手描きによるあじさいの絵が『日本植物誌』に載っている。日本のどこにでも咲いている淡い水色のあじさいである。
長崎で暮らしていた頃、きっとシーボルトは愛する「お滝さん」のことを、拙い発音で「オタクサ」と呼んでいたのであろう……。
そう思って淡い水色のあじさいを見ると、六月の単衣の着物を涼しげにまとった日本女性の楚々とした姿と重なる。
シーボルトが追放された後、お滝は幼いおいねを抱えて暮らしに困ったに違いない。お滝は日本人と再婚したという。混血児がきわめて稀な時代である。娘おいねは差別で苦労を味わったらしいが、母のお滝から、
「あなたの父親は世界に名の知れた立派な医者です」
こまきの「あじさい」
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こまき |
一方、母国に戻ったシーボルトも家庭を持ったが、日本への思いは止みがたかった。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーに宛てて、
「日本を開国させるのに、武力に訴えてはならない。忍耐強く幕府と交渉せよ」
と、書いた書簡が見つかったそうだ。
日本の開国によって国外追放も解け、再び日本にやって来たのは三十年後。シーボルトは、お滝とおいねに再会している。その時、シーボルトは六十四歳、お滝は五十三歳になっていたそうだ。
今年も和菓子屋さんの店先に「あじさい」の生菓子が並び始めた。「あじさい」の生菓子の意匠の中で最も多いのが、寒天を溶かして固めた錦玉を小さな賽の目に切り、餡のまわりにこんもりと盛り付けたものだ。
錦玉の色は、青、ピンク、紫などをとりどりに混ぜて飾り付けたり、錦玉を白濁させて、雨に煙るあじさいを表現したり、きんとんの周りに、雨粒に見立てた錦玉をキラキラと散らす店などもある。
けれど、私が今まで食べた中で最も印象的だったのは、北鎌倉駅改札口のすぐ脇にある和菓子店「こまき」のあじさいの色である。
こまきのあじさいは、錦玉の透明度が高く、ほのかに青い。光の加減で、微妙に紫を帯びているようにも見える。その色が、何とも涼やかでひんやりと見える。その美しい青を透かして、かすかに白餡が見えている。
そのきりりと涼やかな青が、シーボルトの「オタクサ」を連想させる。
© 2003-2013 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.