身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子

2014年8月―NO.138

小川軒のレイズン・ウィッチには、どこかバブル時代より前の、古き良き東京の味がする。

モノづくりの丁寧な心と、高級な大人文化が生きていた東京の味である。

巴里小川軒の「レイズン・ウィッチ」


たしか、昭和五十年代だった……。私は二十代で、お茶の稽古に通い始めてまだ間もなかった。ある日、何服かお抹茶をいただいた後で、先生が、
「これもどうぞ」
 と、丸いお盆を持ってきてくださった。そのお盆の上に、セロファンで包装されたサブレのようなお菓子が五つ六つ、積んであった。
 お茶の武田先生は季節感を重んじて、いつも季節を先取りした和菓子を出してくださるのに、洋菓子なんて珍しい。
「これ今、ちょいと流行してるお菓子なのよ。知ってる?」
「……いいえ」
「あら、そう。それじゃ是非、食べてごらんなさいな」

巴里小川軒の「レイズン・ウィッチ」
 私はお盆の上から一ついただき、懐紙に取った。英語が印刷された透明の包装をパリパリと広げると、サブレの表面のスライスアーモンドが一枚、はらりと落ちた。そうっと優しくセロファンを取ると、ファーっと贅沢な洋酒の香りがした。
「わぁ、いい匂い……」
 明るい狐色にこんがりと焼けた二枚の厚手のサブレの間に、白いクリームと大粒のレーズンが、サンドイッチ状に挟まれている。口に入れると、がっつりと分厚い……。
 バニラの甘い香りといっしょに、ザクッとサブレが壊れる感触があって、表面に残っていたスライスアーモンドの軽くローストされた香ばしさを、鼻先に感じた。
 ザク、ザク、ザク……。齧って頬張る。サブレの破片で口がいっぱいになる。それを、なおもザクザクと噛むと、フニュッとつぶれたレーズンの甘酸っぱさと一緒に、洋酒の濃密な香りが、ふーっと鼻から抜けていく。
 ラム酒とレーズン……。その、都会の大人っぽい味の組み合わせを初めて知った。
「どう?おいしいでしょ。小川軒のレイズン・ウィッチよ」
 先生はにっこりとした。
 あの頃、武田先生は五十歳になったばかりで、思えば、今の私よりずっと若かったのだ。フットワークが軽く、お稽古のある日には、横浜の自宅から東京まで、わざわざ季節の和菓子を買いに出かけて、
「ちょいと、銀座まで行ってきたの」
 などということもよくあった。日本橋、人形町、浅草などの古くからある和菓子の老舗をたくさんご存知で、また、新聞や雑誌などで気の利いたお菓子を見つけては、京都、富山、仙台、島根などからも、季節の美しい干菓子など取り寄せてくださった。
 そんなお茶の稽古場に、小川軒のレイズン・ウィッチは時々登場した。洋菓子なのに、これだけは別格だった。武田先生は銀座の空也や日本橋の長門でその日のお稽古に使う生菓子を買い、その帰りに新橋の駅前の小川軒に立ち寄るらしかった。
「新橋に行くと、どうしてもレイズン・ウィッチが買いたくなるのよ。あれを買うのが好きなのよ」
 と、おっしゃった。

巴里小川軒の「レイズン・ウィッチ」
 ある時、お稽古が終わり、先生の家の門を出て、夕暮れの道を駅に向かって歩いていたら、後ろで、「森下さぁーん!」と呼ぶ声がした。振りむくと、武田先生がこちらに走っていらっしゃる。何だろうと、駆け戻ると、先生は息をきらしながら、
「これ、お夕食の後にでも、お母さんといっしょに食べて」
 と、小さな包みを手渡してくれた。開けてみると、レイズン・ウィッチが二つ入っていた。そんなことが何度もあった。
 だから私は小川軒のレイズンウィッチを見るたびに武田先生を思う。先生にもレイズン・ウィッチにも、同じ都会の高級な大人文化の匂いがする……。
 私は今年、五十八歳になった。今もお稽古に通い、そこで季節の和菓子をいただいている。八十二歳になられた先生は、かつてのように「ちょいと銀座まで和菓子を買いに」というわけにはいかないけれど、お道具の片付けのお手伝いをした後などに、お茶と一緒に、
「どうぞ召し上がれ」
 と、今でもレイズン・ウィッチを出してくださる。
 セロファンに包まれた狐色のサブレと、その表面の軽くローストされたスライスアーモンドを目にすると、初めてお稽古場でそれをいただいた二十代の頃を懐かしく思い出す。あの頃「今、流行り」だったレイズン・ウィッチは、三十年たった今、東京の洋菓子の古典となり、「OGAWAKEN」というセロファンの上の文字は、レトロな風格すらまとっている。
 この三十年、東京はバブルに踊り、崩壊し、失われた十年、二十年……と栄枯盛衰を経てきたけれど、小川軒のレイズン・ウィッチには、どこかバブル時代より前の、古き良き東京の味がする。モノづくりの丁寧な心と、高級な大人文化が生きていた東京の味である。
 先日も、お稽古の後で片付けものをしていたら、「これ、お母さんと食べなさい」と、先生がレイズンウィッチを二つくださった。お礼を言って、先生の家の門を出、夕暮れの道を駅に向かって歩きながら、ふと、後ろで「森下さぁーん」と声がしたような気がして振り返ったが、そこに先生の姿はなかった。

巴里小川軒のホームページ

© 2003-2014 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.