2014年10月―NO.140
京都の味といえば「にしんそば」。
そんな「にしんそば」のおいしい季節が、今年もやってきた。
松葉の「鰊棒煮」
松葉の「にしんそば」 |
「この店は有名なんだ。『一見(いちげん)さんお断り』と言って、紹介がないと入れないんだぞ」
などと言いながら四条通りを歩く父は、子供の目にも得意げに見えた。
あちらこちら寺や景色を見て回り、昼に南座の隣の「松葉」というお蕎麦屋さんに入った。お品書きを見ると、「おろしそば」「とろろそば」「山菜そば」など、馴染みのそばが並んでいるが、一つだけ見慣れぬ名前のそばに行きあたった。
「にしんそば」である……。今でこそ、東京にも「にしんそば」を出す蕎麦屋があるが、あの頃、関東からの旅行者にとって、それは見知らぬ食べ物だった。
真っ先に感じたのは違和感である。
「にしん」はわかる。「そば」もわかる。でも、「にしん+そば」という組み合わせはどうだろう……。そばの上に魚が載っている様を想像しようとするのを、脳みそが拒絶した。
そばは、あくまでもさっぱりと食べたい。ネギとか海苔とかでツルツルッと……。もし載せるとしても野菜天。せいぜいエビ天止まりである。
魚はいけない。生臭いものはそばには合わない。よく煮てあるとしても、魚の脂でそばつゆが濁る気がする……。
私は「にしんそば」という品書きの上をあえて素通りした。ところが、
松葉の「鰊棒煮」 |
と、母が興味を示した。
「にしんそば、か……」
得意げだった父が、一瞬、口ごもった。
「それはな……蕎麦の上に、にしんが載ってるんだ」
「なんだか、生臭そうね」
「いや、身欠きにしんを煮たものだ。京都は海が遠いからな、魚の干物を使った料理が多いんだ」
父はそう説明したが、どんな味なのかは触れなかった。たぶん本当は食べたことがなかったのだろう。父は北関東の蕎麦産地の生まれで、つなぎなしのそばを生醤油(きじょうゆ)ですするような生粋の蕎麦食いだった。それに、「食わず嫌い」なところがあったから、「にしんそば」には、二の足を踏んだのだと想像する。
そして、私と弟も、その父の血を引いていた……。
「どんな味かしら。食べてみようかな」
と、興味津々の母だけが「にしんそば」を注文し、父と私と弟は、「おろしそば」や「とろろそば」という無難な選択をした。
母の前に運ばれてきたどんぶりを横目でチラッと見ると、鰹節のような濃い褐色に煮込まれたにしんの半身が載っていた。身が大きくて、どんぶりから端が出ていた。皮はギラッと光って、そばつゆに半ば浸っている。具は、にしんの他には青ネギだけだった。
母はレンゲでつゆを一口味わって、
「見た目の色より薄味だわ」
と、感想を言いながら、にしんの下からそばを引きずり出し、ズズッとすすった。それから、にしんの身を一口齧って、
「全然生臭くない。味が染みておいしい」
と頷き、忙しく箸を動かしてまたそばをすすった。最後にどんぶりに残ったつゆをきれいに平らげると「はぁーっ、おいしかった」と、しみじみ息をついた。
すっかり「にしんそば」が気に入った母は、旅の間、行く先々で「にしんそば」をすすり、時々、私たちの方を見ては、
「ねえ、ちょっと味見してみない?」
と、誘ったが、父と私と弟は「いらない」と、頑なに首を横に振って、自分のそばに専念した。
あの頃の私は、ぎらついた魚の下からそばを引きずり出して食べることを想像するだけでゾッとしたのだ……。
七味 |
にしんそばは、せっかちに食べてはいけない。まずは、七味をパラっと振りかける。そして、手始めに汁を一口味わう。味は鰹風味だが、あっさりとした京風の薄味である。それから、ゆっくりそばをにしんの下から引きずり出して、ズズッとすする。東京のそばと違って、シャキッとはしていない。
そしていよいよ、にしんに取り掛かる。このにしんの棒煮が、箸で触れただけでホロッと身が崩れるほど柔らかく煮えている。カチカチの身欠きにしんが、ここまでふっくらと柔らかく煮えるには、米のとぎ汁に浸したり、灰汁を抜いたり、酒、醤油、砂糖などで煮込んだりと手間暇がかかっていることを思い浮かべながら、こっくりと甘辛い味に身を浸す。
再びつゆをすする。すると、にしんの旨みが浸み出て、程よい濃さになり、味がしみじみと深くなっている。そのつゆが、そばにからみ、またそばの味がつゆにからんで渾然一体となっていく。
残ったつゆは、きれいにすすらずにはいられない。どんぶりから顔をあげると、体の芯までぽかぽかになり、思わず「はぁーっ」と声が出る。
そんな「にしんそば」のおいしい季節が、今年もやってきた。
© 2003-2014 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.