2015年9月―NO.150
今夜は、二十数年ぶりにおでんである。
目指すのは、小学校四年生の夏休みに食べたプールサイドの味だ。
紀文食品の「おでん種」
今年の夏は異常だった。連日三十五度を突破して、ついに地球が狂ったかと思うような猛暑だったが、八月のお盆を過ぎると今度はいきなり肌寒くなって、20度を下回る日まで現れた。例年なら海水浴場が水着の家族連れや若者で埋め尽くされる夏休み最後の週末、窓の外はもう「秋の長雨」の風情だった……。
「まだ八月なのに変だね。十月初めの金木犀が咲くころみたい」
と言う私のそばで、母はネルの長袖シャツの上に、
「これだけじゃ寒いわ」
と、チョッキまで重ねていた。
ついこの間まで、冷たい素麺やスイカばかり食べていたのに、今はもう見る気もしない。それに代わって、急に目に入るようになったのが「おでん」である……。
「おいしさ さ・え・ら」の連載も始まって十三年を過ぎ、これまでいろいろな食べ物について書いてきたつもりだけれど、そういえば「おでん」は取り上げたことはなかった。それというのも、実は私はもうかれこれ二十年以上、おでんを食べていない。食べていないのに、食べ飽きたような気分だったのである……。
秋から春先まで、コンビニの店内に一歩足を踏み入れれば、鼻先におでんの汁の匂いがやってくる。魚系・醤油味の出汁の匂いだ。カウンター横のおでん鍋の中で、大根、ちくわ、がんもどき、卵などが四六時中温まっている。それらは終電近い電車の疲れた乗客のように、すっかり馴れ合い、つゆを吸って、籠った匂いに染まっていた。私はその匂いだけでもういっぱいで、今さら「おでん種」について、書く気になれなかったのだ。
ところが先日、コンビニでお金を払いながら、ふと、カウンターの横に目をやると、おでん鍋に白い三角のはんぺんが浮いているのが急に目に飛び込んできた。
肌寒い夕方だった。温かいものが妙に恋しかった。 汁を吸って大きく膨張した白い三角のはんぺんは、ふわふわとして、おいしそうだった。
(おでんも、いいなぁ~)
人間はつくづく季節の生き物だ。気温や湿度で、おいしそうに見えるものががらりと変わる。
思えば、私を最初におでん屋に連れて行ったのは父だった。まだ小学校低学年の頃だった。父兄参観日だったのか、学芸会の帰りだったのか。会社員の父がどうして平日、学校に来てくれたのかは定かでないが、とにかく父と一緒に下校する帰り道、
「典子、ちょっと寄ってくか」
まるで会社帰りに同僚を誘うかのように、父は私に声をかけた。
川縁にある小さな店で、赤い提灯に「ひさご」と書いてあった。のれんの奥のカウンター席にランドセルを置いて、父と並んで食べたおでんがどんな具で、どんな味だったのか覚えていない。今、その界隈の景色は、当時とはまるで違うビル街になっているけれど、私はそのあたりを通りかかるたびに、「ひさご」と言う店がどこかにあるのではないかと目で探す。
あの頃、家でも母が時々、おでんを作った。わが家の具は、大根、昆布、さつま揚げ、こんにゃく、イカ巻き、ごぼう巻き、卵……。大鍋に大量に作って、一度作ると二、三日おでんが続くこともあった。
だけど、私が本当におでんのおいしさを知ったのは、小学校四年生の夏休みだった。その日、叔母に付き添われてプールに行った。当時はまだ「温水プール」などなくて、曇りの日は水温が低く、泳いでいるうちに唇が紫色になった。
水から上がり、バスタオルを羽織ると、羽織った肩のあたりだけがほんのり温かかった。震えながらプールサイドにいる叔母のところに小走りに行くと、叔母は売店で買ったおでんを食べていた。湯気の出ている小鉢の中の、がんもどき、大根、こんにゃく、里芋……。それらがかつてないほどおいしそうに見え、私は思わず唾を飲んだ。
「ほら、食べて食べて。あったまるよ」
叔母に勧められるまま、割り箸を持つ手ももどかしく、ふうふうと湯気を吹きながら食べたおでんの、しみわたるような温かさと、ほっとするような汁の味を覚えている。
竹輪もこんにゃくも汁が浸みておいしかったが、とりわけ「ちくわぶ」がうまかった。「ちくわぶ」は強力粉を練り上げたものである。竹輪のような形で中心に穴が開き、まわりには歯車の様なギザギザがついているが、その日のは長く煮込まれて汁を吸い、まわりのギザギザも丸っこくなっていた。そこに、黄色い辛子をちょっと付けて食べる。鼻の奥に辛子の刺激がツーンと来た。モチモチとした歯ごたえ。すいとんのような強いコシ。おなかに優しくたまるちくわぶは、おでんの中の主食だった。いつの間にか体が芯から温まり、私は温かいつゆの匂いの中でくつろいでいた。
それからというもの、私は時々、あのプールサイドの「ちくわぶ」を思い浮かべて、味を追慕した。あの溶けかけて丸っこくなった姿……。もちもちとした歯ごたえ……。
今日、私は紀文のおでん種を買い集めた。今夜は、二十数年ぶりにおでんである。目指すのは、小学校四年生の夏休みに食べたプールサイドの味だ。
© 2003-2015 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.