2015年11月―NO.152
味のある、私的三大和菓子である。
亀十の「どら焼き」、「松風」と橘香堂の「むらすずめ」
かつて、墨彩画を習っていたことがある。墨彩画は、墨や顔彩を含ませた筆で、和紙に一気に絵を描く。下書きなしの、いきなり本番だから、消すことはできない。墨も筆も意のままにならなかったし、さまざまな偶然も起こった……。
ある時、太い線を描いていたら、途中から墨がかすれてしまった。筆に墨をつけ直し、かすれた部分をチョイとなぞろうとしたら、
「だめよ、なぞっちゃ。そのかすれがいいんだから」
と、先生に言われた。
筆に水を含ませすぎて、墨がにじんでしまったこともあった。和紙が水を吸い、ジワジワとにじみが広がっていくのをどうしようもなかった。途方に暮れている私に、先生は、
「あなた今、失敗したと思っているんでしょ。失敗なんてないのよ」
と、声を掛け、
「そのにじみがいいじゃないの。あなたは、きれいな方がいいと思うんでしょうけど、こういうのが、味のある絵なのよ」
と、微笑んだ。
先生は、墨や筆を入り口にして、ものごとに向き合う姿勢を教えてくださった。
「描きすぎちゃだめ。『間』と『余白』が大切なの」
「うまく描こうなんて思わないこと」
そういう先生の言葉が、今も様々な場面で蘇る。
実は、和菓子もそうなのだ。きれいな和菓子は目を楽しませてくれるが、おいしそうで思わず涎が出るような和菓子というのは、素朴で、どこかに抜けがある。今回は、そんな味のある、私的三大和菓子である。
亀十の「どら焼き」 |
浅草・雷門の斜め前にある老舗和菓子店「亀十」。ここの「どら焼き」は、東京でも1、2を争う人気で、雑誌でもよく取り上げられている。開店の午前10時にはすでに長蛇の列ができていて、一日に限定3000個焼かれるというどら焼きは、一度も私の口に入らなかった。それを思いがけなく、地元・横浜のデパートの催事で見つけ、「あっ、亀十だ!」と思わず駆け寄ったのは数年前だ。
買って帰り、袋から取り出したそのどら焼きを見た時、私は一瞬、
(あれ?……これ、焼きそこない?)
と、思った。どら焼きの皮といえば、ふつうはホットケーキのように茶色く均一に焼き上っている。ところが、亀十のどら焼きは、焦げかけた褐色で、しかも、あちこちに卵色のままの焼きムラがあるのだ。これを見たら誰でも、焼きそこないだと思うだろう。
ところが、その焼きムラが、見れば見るほど素朴で、実に味がある。ほだされ、食欲をそそられ、思わず唾液が湧いてくるのである。かぶりつくと、ああ、なんという柔らかさ……。どら焼きと言うより、シフォンケーキのようにフワフワと空気を含み、味と一緒に香ばしさがやってくるのだ。二口目から、餡子も混じってくる。黒餡、白餡の2種類があるが、この餡子が甘すぎず、大人向きだ。ふわふわの皮と餡子が口の中で混じり合い、ボリュームたっぷりなのに、不思議に軽くお腹に収まってしまう。
なんでも、熟練した職人さんがわざわざ焼きムラをつけ、きれいな面でなく、あえて裏を表にしているという。実に心憎い。その焼きムラの素朴さに、今日もたくさんの人が行列する。
亀十の「松風」 |
そのチョコレート色の皮生地の表面は、油揚げを裏返したようにけば立ち、穴が伸びたり、ひきつれや破れもあって、それが松の皮のゴツゴツ、ガサガサとした自然の感触を思わせるのだが、私はその素朴でボソボソッとした蒸しパンの穴や破れに、懐かしさと同時に、衝動に似た食欲を覚え、かぶりつかずにいられない。
一口食べると、蒸しパンのもっちりとした食感があり、黒糖の素朴でコクのある甘さと風味が香って、どこか昭和の味がする。くるりと巻いた皮の中心からは、わずかにつぶし餡が出てきて、黒糖の風味と混じり合い、なんだかコーヒーに合いそうだ。
橘香堂の「むらすずめ」 |
私はこの穴ポコだらけの薄皮を見ると、そこにいとおしさを感じずにはいられない。大きな気泡、小さな気泡が、それこそ雀の群れの様にチュンチュン寄り集まっている。大きな穴の奥には、餡子の色がチラッと見えていたりするのも味がある。
口に入れると、ほのかに卵が香り、薄皮の繊細な食感越しに、餡の甘みがやってくる。その甘みの間に間に感じる、ぶつぶつとした穴の舌触りの優しさ……。素朴にまさる味はない。
© 2003-2015 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.