2016年1月―NO.154
パイの軽やかさに誘われて、
つい二本、三本と続けて食べてしまうのだ。
ベルンの「ミルフィユ」
週刊誌のライターをしていたころ、一緒に記事を書いていた仲間と、たまにカラオケに行った。グループの中に、歌の得意な人がいて、行きつけの店で午前四時ころまで歌を聴いた。その人の十八番は、中村雅俊の「恋人も濡れる街角」で、桑田佳祐、前川清などの歌も聞き惚れるほどうまかった。
私は、うまい人の歌を聴くのは好きだが、歌うのは苦手だ。そもそも、そういう場所で歌えるような歌をほとんど知らない。それなのに、カラオケという場所は、みんなにマイクが回ってきて、「歌え歌え」と勧められる。盛り上がらないのはわかっているが、あまり言われるので、「それじゃあ」と腰を上げ、数少ない持ち歌をしぶしぶ歌う。
その持ち歌とは、「五番街のマリー」と「ジョニーへの伝言」。ザ・昭和オヤジの定番である。イントロが始まると、「いよっ!」とか、一斉に声がかかるが、私は音程が不安定で声の通りが悪く、ただ真面目に歌うだけだから、面白くもなんともない。いざ歌い始めると、場の空気が急速にしぼんでいく。
(言ったでしょ、歌わないって)
と、心の中で思う。
週刊誌の仕事をやめて以後は、長らくカラオケに行く機会もなかったが、二、三年前、久々に歌う店に行くことになった。そこでみんなが歌っていたのは、スキマスイッチ、いきものがかり、レミオロメンなどの歌……。聞き覚えのある歌は一つもなかった。
なのに、やっぱり「歌ってください」と、マイクが回ってくる。何度もお断りしたが、歌の得意な人というのは、他人も歌いたがっていると思うものらしい。あまりにも勧められるので、(じゃあ、聞かせてやろう)とマイクを握った。歌ったのは、もちろん、わが定番「ジョニーへの伝言」だ……。
歌い始めた途端、まわりに気づまりな空気が流れ、最後は、申し分けなさそうな雰囲気になった。拍手しながら、誰も目を合わせなかった。
だから言ったでしょ……。
ベルンの「ミルフィユ」 |
その後、泉屋の独壇場だったおつかいものの洋菓子の世界に、風月堂のゴーフル、モロゾフのチョコレート、ユーハイムのバームクーヘン、メリーチョコレート、本高砂屋のエコルセ、そしてヨックモックが新たな定番として登場する。ヨックモックのシガールが入っていた長方形の缶は、今もわが家の食費とレシートの入れ物になっている。
ベルンの「ミルフィユ」 |
「知らない店より、誰もが知っている店のお菓子の方が失礼にならないだろう」
とか、
「有名デパートに入っている店のお菓子なら、体裁もいい」
という日本人らしい配慮があって、別の言い方をすれば、
「みんなが選ぶものにしておけば無難」
ということなのではないだろうか。
けれど、そんなおつかいものの定番の中にも、大好きなお菓子がある。
ベルンの「ミルフィユ」 |
一つ手に取り、裏の切れ込みをクルリとはがすと簡単に剥け、パッケージが半分持ち手になる。チョコレートなのに手を汚さずに食べることができるのも魅力だ。
一口齧ると、ガサッと割れて、重なり合ったパイの層が現れる。私はその無数の薄い層の重なりに見惚れながら、枯葉を踏みしめるカサカサという乾いた音を思い出し、「千枚の葉」(ミルフィユ)という言葉のデリケートな美しさを噛みしめる。そうして、パイの軽やかさに誘われて、つい二本、三本と続けて食べてしまうのだ。
私はデパ地下の売り場でベルンのミルフィユを買う。いつも必ず「おつかいものですか?」と聞かれ、そのたびに「自分で食べます」と答える。
「ジョニーへの伝言」もそうだが、「定番」とは、不朽の名作のことである。
© 2003-2015 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.