2016年3月―NO.156
饅頭の皮はしっとりとした薯蕷で、おいしそうだ。
青野総本舗の「桃まんじゅう」
「あ、青野総本舗だ」
「あなた、和菓子好きだから」
ピンク色の包装紙をほどくと、現れた木箱の上に、お雛様の掛け紙が掛かっていた。
「わぁ!」
「お節句だからね」
箱の中には、桃の形をした小ぶりのお饅頭が行儀よく並んでいた。白い饅頭の両頬はピンク色に染められている。どこか京劇の女形の化粧のようにも見え、若い娘がはにかんだように、あでやかだった。
一つ手に取ると、饅頭の皮はしっとりとした薯蕷で、おいしそうだ。
「お茶入れるね」
お湯を沸かしながら煎茶の準備をしていたら、頭の中に突然、
「人面桃花」
という言葉が浮かんだ。
それは女子高時代、漢文の授業で習った中国の物語である……。
トヨ子先生の服装は、いつもなんだか野暮ったくて、パーマをかけた髪型も垢抜けなかった。女子高校生たちは辛辣だ。私たちはトヨ子先生のことを「オバサンくさい」と笑い、「トン子」というあだ名で呼んでいた。「売れ残り」という女性を蔑視した言葉も、まだ生きていた時代だ……。
そのトン子の漢文の授業で、ある日、「人面桃花」を読んだ。青年と若く美しい娘の恋を描いたもので、京劇のお芝居にもなっている物語だという。
……昔、崔護という好青年がいた。桃の盛りの清明節の日、崔護は散歩の途中、たまたま通りかかった屋敷の門をたたいた。すると、娘さんが門の中からこちらを覗いて「どなたですか」と尋ねた。崔護は、
「春を訪ねてひとりでやってきました。酒を飲んでのどが渇いているので、お水をいっぱいただけないだろうか」
と、頼んだ。娘は水を持ってきて、門を開き彼を招きいれた。娘は傍らの桃の木の下にたたずんで、黙って崔護を見ていた。その姿は、なまめかしく美しかった。二人は互いに心惹かれあったが、そのまま何も言わず、別れてしまった。
しかし、崔護は娘のことを忘れられず、一年後の清明節の日、またその家を訪ねた。しかし、門は固く閉ざされていた。そこで彼は門扉に次のような詩を書き付けて帰った。
「去年今日此門中
人面桃花相暎紅
人面祇今何処去
桃花依旧笑春風」
(去年の今日この門の中で、あの娘の顔と桃の花は、互いに美しく映えていた。彼女はどこに行ってしまったのだろう。桃の花だけは去年と変わらず、春風に微笑んでいるのに……)
この詩を読んで、トン子は教科書をパタッと教壇に伏せ、
「だから、あなたたちも、若くてきれいなうちに恋をしなさい」
と、ちょっと寂しそうに微笑んだ。突然のトン子の言葉に、ざわついていた教室が静まり返った。
「女はね、まだまだ立場が弱いの。結婚だって、女は『もらわれる』っていう感じがやっぱりあるのよ。だから、あなたたちは、若くてきれいな時に、ちゃんと恋愛して、好きな人と結婚するのよ」
私たちは、しーんと聞き入った。
学校の先生たちは、みんな「教師」という堅い鎧を纏い、建前でしかものを言わなかった。先生とは、そういうものだと思っていた。だけど、トン子は生身でぽつんと立ち、生身の胸の内をしゃべっていた。私たちは、急にトン子がいとおしくなった。
その後、トン子はお見合い結婚をした。当時としては、かなりの晩婚だった。翌年、「先生、つわりらしい」という噂がパッと広がったが、なぜかトン子は学校に姿を見せなくなった。
「また休みだ。どうしたんだろう」
「もしかして、流産?」
私たちは心配した。やっと復帰したトン子は青ざめ、痩せていた。私たちの心配は的中していたのだ。
ある日、朝食を食べながら、母に話した。
「先生、かわいそうなんだよ。みんなで、トン子、また赤ちゃんできるといいねって、言い合ってるんだ」
母は味噌汁をお椀によそいながら、
「お前たちも、女なんだね」
と、涙を拭いた。
それからどのくらい後だったろう。「トン子、ご懐妊」のニュースが広がった。かすかに膨らみ始めたお腹で教壇に上がったトン子は、「予定日は十月なの」と、顔を桃色にした。教室中がおめでとうに沸いた。
「先生、よかったね」
「高齢出産、頑張ってね」
私たちは十七歳。トン子は四十少し前。
だけど、同じ女同士だった。
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