身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
叔母がイギリスに渡り、彼の地の男性と結婚したのは昭和五十年のことだった。そのイギリス人の名は、リチャード。
「きちんとした人物だろうか?」
「だまされているんじゃないだろうか」
祖母も、叔母のきょうだいたちも、最初はかなり心配したようだ。
「どんな男か見てくる」
叔母の姉妹や甥姪が次々とリチャードを見にイギリスへ出かけた。私もその一人だった。大学一年の夏、ヨーロッパ旅行の途中、ロンドンで初めてリチャードに会った。
彼は叔母より、十歳若かった。ハンサムでもダンディーでもなかったが、にこにこと上機嫌で、実に気さくな青年だった。頭のてっぺんから出たような高い声でしゃべり、こちらが片言の英語で何か問いかけると、丁寧なクイーンズイングリッシュで答えてくれるのだが、その返事に必ずジョークのおまけが付いていた。
数年後、叔母はリチャードを連れて日本にやってきた。岩手の祖母の家に、彼を見ようと大勢の親類縁者が集まった。互いにまったく言葉が通じないのに、酒だけは共通言語らしく、「呑め、呑め」と、勧める祖父や叔父たちとリチャードはすっかり意気投合した。彼は、日本の親戚と不思議に馬が合った。
叔母とリチャードは、二、三年置きに日本に来るようになった。長い休暇を日本で過ごし、世界一安全で正確な新幹線であちこちを旅し、親戚の家から家へ泊まり歩いた。
イギリスから来るたび、二人は親戚一軒一軒にお土産を配った。最初はスコッチウィスキーだった。だけど、スコッチの味がわかる親戚はいない。なにせ、実に煙くさい。だから、うちではそのまま、サイドボードの中の北海道の熊の置物の横に並べておいた。二人が来るたび、スコッチウィスキーが溜まる。そのうち、置き場にも困るようになった。
叔母もそれに気づいたのだろう。間もなく、お土産は、オイルサーディンの缶詰や生ハムに変わり、それが数回続いた。が、ある時、日本のスーパーの棚にも、オイルサーディンや生ハムが並んでいるのを見て、叔母は、
「なんだ、日本にもあったんだ……。」
と、落胆した。
次は、缶入りのパテ。これは日本では売っていなかったが、そのパテを一口食べて、私はまずさに驚いた。それきり、パテは冷蔵庫の隅にいつまでも残ることになった。
「おばちゃん、もうお土産の気を遣わないで。毎回買って来るの大変でしょう」
そう思い切って言うと、叔母も、
「そうだね……。お土産を考えるのが一番大変なのに、日本にはなんでもあるものね」
と頷いた。
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