2016年6月―NO.158
「世界一おいしいチョコレート」と称されるベルギーのチョコ
ギリアンの「シーシェルチョコレート」
叔母がイギリスに渡り、彼の地の男性と結婚したのは昭和五十年のことだった。そのイギリス人の名は、リチャード。
「きちんとした人物だろうか?」
「だまされているんじゃないだろうか」
祖母も、叔母のきょうだいたちも、最初はかなり心配したようだ。
「どんな男か見てくる」
叔母の姉妹や甥姪が次々とリチャードを見にイギリスへ出かけた。私もその一人だった。大学一年の夏、ヨーロッパ旅行の途中、ロンドンで初めてリチャードに会った。
彼は叔母より、十歳若かった。ハンサムでもダンディーでもなかったが、にこにこと上機嫌で、実に気さくな青年だった。頭のてっぺんから出たような高い声でしゃべり、こちらが片言の英語で何か問いかけると、丁寧なクイーンズイングリッシュで答えてくれるのだが、その返事に必ずジョークのおまけが付いていた。
数年後、叔母はリチャードを連れて日本にやってきた。岩手の祖母の家に、彼を見ようと大勢の親類縁者が集まった。互いにまったく言葉が通じないのに、酒だけは共通言語らしく、「呑め、呑め」と、勧める祖父や叔父たちとリチャードはすっかり意気投合した。彼は、日本の親戚と不思議に馬が合った。
叔母とリチャードは、二、三年置きに日本に来るようになった。長い休暇を日本で過ごし、世界一安全で正確な新幹線であちこちを旅し、親戚の家から家へ泊まり歩いた。
イギリスから来るたび、二人は親戚一軒一軒にお土産を配った。最初はスコッチウィスキーだった。だけど、スコッチの味がわかる親戚はいない。なにせ、実に煙くさい。だから、うちではそのまま、サイドボードの中の北海道の熊の置物の横に並べておいた。二人が来るたび、スコッチウィスキーが溜まる。そのうち、置き場にも困るようになった。
叔母もそれに気づいたのだろう。間もなく、お土産は、オイルサーディンの缶詰や生ハムに変わり、それが数回続いた。が、ある時、日本のスーパーの棚にも、オイルサーディンや生ハムが並んでいるのを見て、叔母は、
「なんだ、日本にもあったんだ……。」
と、落胆した。
次は、缶入りのパテ。これは日本では売っていなかったが、そのパテを一口食べて、私はまずさに驚いた。それきり、パテは冷蔵庫の隅にいつまでも残ることになった。
「おばちゃん、もうお土産の気を遣わないで。毎回買って来るの大変でしょう」
そう思い切って言うと、叔母も、
「そうだね……。お土産を考えるのが一番大変なのに、日本にはなんでもあるものね」
と頷いた。
色はチョコとミルクのマーブル模様で、様々な貝殻の形をしている。その中の、巻貝を一つ齧った瞬間、チョコレートの中から、もっと柔らかなチョコレートの味がした。それも、ただのチョコではない。コクがあって、口どけが実に滑らかなのだ。そして、最後に、素晴らしい香ばしさが鼻に抜ける。
(この香り、何だろう)
箱を見ると、材料の中にヘーゼルナッツが使われていた。
「これ、おいしい……」
私は巻貝や扇貝、タツノオトシゴなどの形のチョコレートを次々に口に入れ、改めて箱に印字された名を心に刻んだ。
「GYLIAN」(ギリアン)。それが「世界一おいしいチョコレート」と称されているベルギーのチョコだということを後で知った。
今年も花見に来る予定だった。いつものギリアンの貝殻チョコレートを持って……。
ところが四月、リチャードは急に体調を崩し、楽しい計画を残したまま、日本ではなく、見えない世界に旅立ってしまった。 あまりにも突然のことだった。
リチャードは日本が大好きだった。特に、叔母の実家のある岩手が性に合い、
「温泉に入って、浴衣を着て、大勢で畳の上でお酒を飲んだりするのが好きだ」
と、言っていた。
東京の桜が散り始めた頃、親戚を代表して、叔母の妹と姪が、急きょ、イギリスに旅立ち、葬儀に参列した。その帰り、ヒースロー空港で、ギリアンの貝殻チョコレートを買って来てくれた。
そのチョコのお土産を目にした時、「農協」の帽子をかぶって、いつもニコニコしていたリチャードの姿が思い浮かんだ。
© 2003-2016 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.