2016年7月―NO.160
「あじさいだよ」
「わぁ、きれい……。季節だねえ」
金米堂本店の「あじさい」(生菓子)
テレビで箱根登山鉄道「あじさい電車」のニュースが流れた。箱根湯本付近は今やあじさいの真っ盛りだが、標高の高い宮ノ下、強羅あたりは、まだ色も兆していないらしい。これから約一ヵ月をかけ、箱根山は裾から上へ、ゆっくり染まっていく。
箱根のあじさいは、夜も美しい。ライトアップされて闇に浮かび上がるあじさいの花々を、夜の電車がかすめるようにゆっくり走る。その映像を見ながら、
「いいなぁ~」
と、母が夢見るようにつぶやいた。そして、ふと思いたったように、
「そうだ。あじさいを見に、久しぶりに箱根に行こう」
と、私に言った。
「そうだね。行こうか」
私も明るく返事をしたけれど、行かないのはわかっている。
母はこの数年、急に足腰が弱って、遠出ができなくなった。以前も、テレビで新緑の鎌倉を見て、
「今日は天気もいいし、久しぶりに小町通りを歩こうかな」
と、言い出したことがあった。ところが、いざ私が出かける準備を始めると、
「やっぱりやめとくわ。なんだか、膝が痛いし、ケガでもしたら大変」
と、気弱くなる。そんなことが、最近、たび重なっている。
もう遠出は難しい。誰よりも母自身がそのことを感じているのだ。それなのに、
「そうだ、行こう!」
などと言ってみる。だから、私も
「そうだね、行こうか」
と、調子を合わせる。「いつ」を約束しない。私と母はこのごろ、そんな実現しない言葉のやりとりをしている。これが高齢の親と暮らすということだろうか……。
ほんの五年前まで、母は足に自信があった。歩けなくなる日がくるなんて思ってもいなかったことだろう。
夏の夜には、夕涼みがてら、よく二人で横浜駅から山下公園まで、距離にして五、六キロを散歩し、大桟橋で夜景を眺めた。
そんな散歩の道すがら、母は道路傍のあじさいに足を止めた。梅雨のさなかの、蒸し暑い夕方だった。
「典子、見て。この色……。きれいだねえ。この頃は、イチゴシロップみたいな赤いあじさいがあるけど、あじさいは、やっぱり涼やかじゃなくっちゃ」
それはまるで快晴の日の海のような鮮やかな青で、子供の顔くらいある大輪だった。母はしばらく見とれていたが、
「これ、ちょっともらって行って、挿し木してみる」
と、一枝折り取った。
幸い、うちは土壌も環境もあじさい向きだった。その枝は見事に根を張り、毎年六月、庭の隅にインディゴブルーの大輪の花の茂みを作るようになった。
二人で元気に夜の散歩をした夏から、それほど時がたっていないのに、母は今、デイサービスの迎えの車が来てくれる時しか家を出ず、日がな一日、ソファーで過ごす。そして、たまに窓から、自分が挿し木したあじさいを眺めては、
「いい色だねえ~」
と、初めて見たように繰り返す。
もう母を連れて、あじさいを見に行くことは本当にかなわないのかもしれない……。
先日、買い物の帰りに、京浜東北線・石川町に近い「金米堂本店」にふと立ち寄った。小さな店だが、創業明治25年の老舗菓子店である。
ガラスの商品ケースの中には、とりどりの季節の上生菓子が並んでいる。その中に「あじさい」を見つけた。錦玉を賽の目に切って餡子玉のまわりにつけた夏の定番である。色は、青みがかったピンク。錦玉の上に、薄い水色の淡雪羹がかかっているのは、花を濡らす雨だ……。
この「あじさい」を五つほど買って帰り、台所でお湯を沸かしながら、
「ねえ、おいしそうなお菓子買ってきたから、一緒にたべよう」
と、ソファに座ってテレビを見ている母に声をかけた。
お湯が沸く間に、サンダルをつっかけて庭に出、青い大輪のあじさいとホタルブクロを一輪切って竹籠に入れ、卓袱台に置いた。
「涼しげで、いいね」
沸騰したやかんの火を止め、和菓子の紙包みを開くと、つるんとした錦玉の断面がガラスのようにキラリと光った。私はそれを古いガラスの洋皿に載せ、楊枝を添えて母と自分の前に置いた。
「あじさいだよ」
「わぁ、きれい……。季節だねえ」
母の顔にみるみる微笑みが広がり、
「そうだ。箱根にあじさいを見に行こう」
と言った。
「そうだ。行こうよ」
© 2003-2016 Noriko Morishita, KAJIWARA INC.