2017年5月―NO.170
柔らかい餅と、みそ餡のまろやかな甘じょっぱさが混じり合う。
その瞬間、鼻の奥にスーッと、青々とした柏の葉の香りを感じた。
谷中岡埜栄泉の「柏餅」
けれど、私は人波から離れ、道路を渡って、言問通りのつま先上がりの道を鶯谷方面へと向かった。ゴールデンウィークに入ってから天気が安定し、急に暑くなった。坂を上がっていくうちに額が軽く汗ばんだ。今日は夏日になるらしい。
坂の途中から見える民家の物干し台に小さなこいのぼりが上がっている。花屋の店先では、しょうぶの葉の束が売られていて、
「五月五日は、しょうぶ湯の日です」
と書いてある……。
柏餅を食べる瞬間の、鼻先にスーッと感じる、塩漬けの柏の葉っぱの生き生きとした香りを不意に思い出したのは、つい二、三日前のことだった。
手のひらみたいに大きくて、ゴワゴワした柏の葉っぱにすっぽりと挟まれた、ハマグリのようにこんもりとした膨らみ……。葉の間から大きな舌が覗いたような、ぽってりと重なり合った白い餅の縁の丸み……。
柔らかな餅肌に、べたべたとひっついた葉っぱを剥がす感触。時おり、破れて餅にくっついた柏の葉っぱの繊維……。そして、かぶりついた瞬間、コシのある餅の中から出て来る餡の優しい甘み……。
そういえば、子どもの頃食べていた柏餅は、いつも「こし餡」だった。ところが、お茶を習い始め、ある年の稽古日に、先生が出してくださった柏餅は「みそ餡」だった。
最初に感じたのは違和感だ。甘いはずの柏餅の中に、味噌のほのかな塩気を感じる。その複雑な甘じょっぱさが嫌だった。けれど、何度か食べているうちに慣れてきて、今はまろやかな味噌の風味が漂うみそ餡が好きだ。
おいしいと評判の「みそ餡」の柏餅を食べたくて、二日前、豆大福の名店として知られる谷中の老舗和菓子店に電話した。
「今日は柏餅、やってますか?」
すると、あいにく「今日は休みです」という返事だった。店主によれば、
「柏餅は四月二十九日と三十日に作りました。五月は三日、四日、五日の三日間だけです」
という。この店では、柏餅をたった五日間しか作らない。それも、
「賞味期限は当日です。その日のうちに召し上がってください」
という。
(そういえば……)
思い出した。上新粉の餅は、時間が経つとひどく硬くなるのだった。昔、父がよく柏餅を買ってきたが、いつもたくさん買い過ぎて食べきれなかった。残った柏餅を夜食べると、餅のコシがやけに強くなっていて、胃にもたれたのを覚えている。翌日まで残った柏餅などは、柏の葉っぱが渇いて反り返り、餅もカチカチになっていた。「もったいないから」と固くなった柏餅を齧ると、ヒビ割れた餅の間から餡子がニュッと出て、実にまずかった。
柏餅は当日。それも、できるだけ早く食べなければいけない。季節限定とは、そういう約束で食べるものだ。
開店直後にもかかわらず、谷中岡埜栄泉の前ではもう数人が列を作って待っていた。道に面した硝子戸に、柏餅の張り紙が貼ってあった。
「当店自慢の『こしあん』と京都の石野の白みそを使った『みそあん』です。五日間限定ですので是非」 店内から、奥さんらしい女性が接客する声が響いてくる。
「まあ、遠くからお越しくださってありがとうございます。こし餡五つとみそ餡五つですね。いつもありがとうございます。いいお客様に恵まれて、うちは本当に幸せです」
店の中は柱も壁も、すべてが年代を感じさせる。なんでも、太平洋戦争当時、谷中は空襲の噂が絶えなかった。空襲を受けた場合、近くの警察署に被害が及ぶのを防ぐため、このあたり一帯は更地にされたという。現在の建物は、戦後すぐに建てられたものだそうだ。
……順番がやってきた。
「予約した森下です」
「まぁ、森下さま。お電話では、主人が大変失礼をいたしました。みそ餡五つでございますね。おつかいものですか、ご自宅用でございますか?」
「柏餅買ってきたよ。食べよう」
と、母を呼んで、お茶を啜りつつ、柏の葉を手に取った。みそ餡の柏餅は、こし餡と区別するために餅がほのかなピンク色になっている。ひっついた葉っぱを少し剥がし、舌のような餅にかぶりついた。
柔らかい餅と、みそ餡のまろやかな甘じょっぱさが混じり合う。その瞬間、鼻の奥にスーッと、青々とした柏の葉の香りを感じた。
五月の匂いだ!