2008年7月―NO.69
これを1粒頬張ると、ほどよい酸味とまろやかな甘みに、 こんこんと新鮮な唾液が湧き、深い旨みの境地に連れて行かれる 梅いちばんの「黄金漬」
梅いちばんの「黄金漬」 (画:森下典子)
あれは、5つか6つのころだった。祖母から「お守り」をもらった。赤い錦の小さな袋で、口が紐でキュッと結んであった。袋を開けようとすると、 「こらこら見ちゃだめ。神様が入ってるんだからバチが当たるよ」 と、祖母に言われた。 神様は、見てはいけない……。妖しいときめきを知った。それが、生まれて初めて感じた「神秘」と「タブー」だった気がする。 だけど、見てはいけないと言われれば、なおさら見てみたくなる。ある時、こっそりと「お守り」の袋を開けてみた。中から白い小さな包みが出てきた。この中に「神様」が入っていると思うと、心臓がバコバコした。そっと包みをひらいた。 「神様」は……小さな板切れだった。肩すかしをくったような思いがした。 そのころ、わが家には小さな神棚があって、その神棚の真ん中に、小さな白木のお宮が鎮座していた。お正月になると父は神棚にお神酒を供え、大真面目な顔で柏手を打った。 (あの中に神様がいるんだろうか?) 私は、鳩時計から鳩が出るように、お宮の小さな扉がパカッと開いて神様が出てくるのを待ったが、いつまでたっても扉は締まったままだった。中を見てみたかった。 ある日、父が掃除中に神棚にハタキをかけていたら、ハタキが勢い余って、白木のお宮が神棚から転がり落ち、パカッと小さな扉が開いた。 中は、からっぽだった……。期待を裏切られた気持ちと、「やっぱり」という気分が一緒にやってきた。がっかりした。 それでも私の「神様」への好奇心は尽きなかった。「神様」はきっとどこかにいると思っていた。私の勘では、「神様」は、何かの奥の奥に守られているような気がした。 母が台所でキャベツの葉を一枚一枚はがすのを見ると、幾重にも重なり合った葉っぱの奥に、神様が棲んでいるかもしれないと思った。ラッキョウの甘酢漬けを食べる時も、一枚一枚ラッキョウの皮をむきながら、徐々に核心の神様に近づいていくような気がした。しかし、キャベツの奥にも、ラッキョウの奥にも「神様」らしきものはなかった。