身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
HOME

 


 
2005年5月―NO.32
  3

「ん〜」 そのやさしい食感にほだされ、
思わず、 自分の小鼻がふくらむのがわかった

清月堂の「おとし文」


紫蘭
紫蘭
(画:森下典子)

 「おとし文」の地割れを見ていると、私は、春先の土を思い出す。
 春先の土は、ふっくらと蒸しあがった蒸かしまんじゅうのように、ほこほこしているのだ。子供の頃、私はよく、庭にしゃがんで、ぺんぺん草やノビルを引っ張ったものだ。すると、根っこの張ったまわりの土がもっこりと持ち上がり、蒸かしまんじゅうのような地面に地割れが走った。
 「おとし文」の「こし餡」の地割れの隙間からは、奥にある山吹色の「黄味餡」が、ちらっと見えている。茶色と山吹色は、この世で最もうまそうな組み合わせである。
「…………」
 じっと見ていると、なんだか指の第2関節がむず痒くなるような、たまらない衝動に駆られる。
 小さくて、ほこほこと脆い和菓子を、壊さないように、親指と人差し指で、柔らかくつまむ。こし餡には、かすかな湿り気があり、いかにも壊れやすい。口に入れて、半分だけ、そーっと齧る。
 すると、たちまち、表面がほろほろと壊れる。ほろほろとした口どけの食感の後に、卵の黄身の風味が鼻に抜け、とろんとした甘さがやってくる。
「ん〜」
 そのやさしい食感にほだされ、思わず、自分の小鼻がふくらむのがわかった。
 私は、指先に残った齧りかけの「おとし文」を、まじまじと見た。うまいものは、かじりかけを見たくなる。崩れかけた断面が、なお一層、うまさをそそる。
 むずむずとした衝動に駆られ、私は思わず、自分の指先に、かぶりついた……。
戻る 清月堂のホームページ



Copyright 2003-2024 KAJIWARA INC. All right reserved