2006年6月―NO.44
ただ黙って、枝豆の滋養の味が、細胞に行き渡るままにするこの幸せ! 脳みその神経の端々までが、枝豆の味を読み込むように味わっている気がする。 ずんだ茶寮の「ずんだ餅」
ずんだ茶寮の「ずんだ餅」 (画:森下典子)
以来、私は「ずんだ餅」に目がない。「ずんだ」という名を耳にした途端、口の中に、あの枝豆の味がよみがえる……。 最近は、「ずんだ茶寮」という「ずんだ餅」の専門店が大丸東京店に出店したので、よく買いに行く。冷凍してコチコチだが、常温で置けば、今なら2,3時間で柔らかくなる。 すると、餅がねばり、とろーっとした鮮やかな黄緑色のタレが、突然、目を覚ましたように濃厚な風味を放つ……。 ところで、「ずんだ」の語源は、「豆を打つ」の「豆打(づだ)」が訛ったものだとか、「ついた豆」が訛って→「ついだ豆」→「づんだ豆」になったとか、諸説あるらしい。 が、私はなんだか、茹でた枝豆を、すり鉢に入れ、すりこ木で、 ずんずんずんずん…… と、潰した、「ずんずんした豆」だから、「ずんだ」になったのではないかと想像している。少なくも、この名前には、その動作のニュアンスが生きている気がする。 ともあれ、「ずんだ餅」には、東北と東北弁のぬくもりが宿っている。 んだ。「ずんだ」だ。