身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2007年7月―NO.57

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この一粒の宝石を味わいながら、
顔をすぼめ、目を細め、
私は季節の幸せに、思わず微笑む

源吉兆庵の「陸乃宝珠」


源吉兆庵の「陸乃宝珠」
源吉兆庵の「陸乃宝珠」
(画:森下典子)

 もう1つ、私の憧れた地名。それは、アラビア海に面した国、オマーンの首都「マスカット」である。「マスカット」という地名を見たとき、爽やかな翡翠色と、甘く上品な味を思い出した。お見舞いの立派な果物籠などに盛られているあの高級な葡萄である。
 幼い頃、ある日、お客様から箱入りのマスカットをいただいたことがある。母は、
「あらま、こんな高級品を!」
 と、たいそう恐縮した。お客が帰るとさっそく洗って皿に盛り、
「これ、高いのよ〜。『果物の宝石』っていうくらいよ。一粒いくらするかしらねえ」
 と、言いながら1粒、大事そうな手つきで枝から「ブチッ!」と、もいだ。透明感に輝く翡翠色の粒は、はちきれそうに大きかった。
 皮の表面は、靄がかかったように白い果粉にうっすらと覆われ、水滴を弾いている。母はそろりそろりと皮をむいた。中から現れた薄緑を帯びた透明の丸い身は、たっぷりと水気を滴らせている。母は指を伝い落ちる汁を、もったいないと言うように先に口で吸って、
「ん〜っ、この香り!」
 と、肩を震わせた。それから一口で頬張ると、ものも言わず、大事にいとおしむように味わい、顔をすぼめ、目を細め、やがて、幸せそうな微笑みを含んだ目で、
(食べてごらんよ)
 と、房を指すと、口から小さな種を2つ3つつまみ出して、
「あーっ!」
 と、搾り出すようにうめいた。
 私も母に続いて、大きな粒の皮をむき、口にツルンと入れた。プリッとした丸い果肉に歯を立てると、そこから、驚くほどの汁が口いっぱいにほとばしった。その上品で爽やかな甘みと芳香……。
 「マスカット」という名は、高価で甘美な、この上なくみずみずしい翡翠色の印象と共に、私の心に強く刷り込まれた。
 地球儀で「マスカット」という地名を見たとき、私は当然のように、葡萄棚に翡翠色の房がたわわに下る景色を想像し、
「マスカット産の本場のマスカットはさぞかしおいしいのだろう」
  と、思った。

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