身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2007年7月―NO.57

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この一粒の宝石を味わいながら、
顔をすぼめ、目を細め、
私は季節の幸せに、思わず微笑む

源吉兆庵の「陸乃宝珠」


源吉兆庵の「陸乃宝珠」
源吉兆庵の「陸乃宝珠」

(画:森下典子)

 30代の初め、そのアラビア海の都市マスカットに行った。いや、「行った」と言っても、取材のために乗ったタンカーが寄航しただけで、陸には上っていないが、海から見た憧れのマスカットは、味も素っ気もない岸壁で、その向こうは岩山だった……。
 実は、マスカットとはアラビア語で「山が海に落ちるところ」という意味で、葡萄の産地ではないと知ったのは、ついこの間のことである。
翡翠色の高級葡萄の原産地はエジプト。正式な名は「マスカット・オブ・アレキサンドリア」というのだそうだ。
 マスカット・オブ・アレキサンドリア……。なんと贅沢な響きだろう! クレオパトラが王宮の長椅子に寝そべりながら、傍らの金の器に手を伸ばすと、そこにあの翡翠色の宝石のような美しい葡萄が盛られている。そんな光景が浮かぶではないか。
 毎年今頃の季節、私は源吉兆庵の「陸乃宝珠」という季節の和菓子を買っている。砂糖をまぶした翡翠色の粒を齧ると、求肥のもちもちした感触の下で、プリッと何かがはじけ、果汁がほとばしる。皮のかすかに青臭い苦味が過ぎ去った後に、あの上品な甘さと香りが広がる。和菓子の中から、本物のマスカット・オブ・アレキサンドリアが丸ごと一粒現れるのだ。
 齧り取った切り口は、みずみずしく濡れて、翡翠の果肉の向こうに、小さな種も見える。求肥の甘さと、マスカットのみずみずしさの組み合わせが、不思議によく合う。
 この一粒の宝石を味わいながら、顔をすぼめ、目を細め、私は季節の幸せに、思わず微笑む。

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