2008年2月―NO.64
人はこんなにささやかな飴菓子で、豊かさを感じることがある。 九重本舗玉澤の「霜ばしら」
長靴 (画:森下典子)
生徒同士、顔を見合わせて首をかしげ、結局、先生の方に目をやった。 「あのねー、それ、『霜ばしら』というの」 私たち生徒は、思わず顔を見合わせ、膝を打った。 「……あーっ!」 「なーるほど!」 そうだった!息が白く見える寒い朝、ランドセルを背負って学校に行く途中、よく霜柱を踏んで歩いた。あの頃は、東京や横浜の住宅地にもまだいっぱい地面があって、繊維のような美しい氷の柱が、道の脇の土を押し上げていた。 私は、わざと道の脇を歩いて、霜柱を踏みながら歩いた。踏むと、長靴の下で霜柱が壊れた。長靴の底を通して感じた、あのザクザクとした感触を、私は今でも思い出すことができる。その壊れた霜柱の繊維が、泥の中で、ガラスのようにキラキラ光り、朝日を浴びていた。 「さあ、お茶が点つわよ。早く召し上がれ」 先生に促されて、粉の中から「霜ばしら」の板を2,3枚静かに引き出し、懐紙に受けた。 軽い軽い、さらし飴であった。 そっと口に入れ、舌の上に載せると、あるかなきかの、ハリっというかすかな感触と共に割れ、あっという間に消えていた。後には、飴の素朴な甘さがかすかに残った。 温かい湯気のたつお茶碗をまわしながら、私はふっと思い出した。そういえば、子供のころ、霜柱を見ながら、 (1つつまんで口に入れてみたいなぁ) と、思ったっけ……。 子供時代の記憶と、さらし飴の軽い甘みで、熱いお抹茶をいただいた。 しーーーーーーーー と鳴る「松風」も、お稽古場の空気も、すべてがやさしく、私を包んでくれている気がした。 人はこんなにささやかな飴菓子で、豊かさを感じることがある。 障子の向こうに、日差しが出てきた。