身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2010年6月―NO.91

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私は、自分が水羊羹の中にいるように感じた。
菊家の「水羊羹」


菊家の「水羊羹」
菊家の「水羊羹」
(画:森下典子)

 青山にある通称、骨董通りに「菊家」というこじんまりした和菓子屋がある。高級ブティックがたち並ぶ通りなのに、菊家の前には柳の木が揺れていて、そこだけ吹いている風が違う。
 ガラスのはまった昔ながらの引き戸をカラカラと開けて入ると、中はひんやりと涼しくて、左の隅には石のつくばい、右には緋毛氈を敷いた待合の腰かけがあって、いつも季節の花が生けられている。
「ごめんください」
 と、声をかけると、奥から、
「いらっしゃいませ」
 と、粋な縞のきものの女主人が顔を出す。
 小さなお帳場がガラスのケースになっていて、中をのぞくと、美しい季節の生菓子や干菓子がいっぱい並んでいる。「蛍袋」「鮎」「玉川」などと、柔らかな筆文字で書いた名前を読みながら眺めていると、目まで蕩けそうになる。
 ここは作家の向田邦子さんが通った和菓子屋である。『眠る杯』の中に登場するので改めて読んでみると、店の佇まい、緋毛氈の待合、女主人の着物まで、当時と何も変わっていないのだなと思う。
 向田邦子さんは、この店の水羊羹が好きで、エッセイの中にこう書いている。
「まず水羊羹の命は切口と角であります。
 宮本武蔵か眠狂四郎が、スパッと水を切ったらこうもなろうかというような鋭い切口と、それこそ手の切れそうなとがった角がなくては、水羊羹といえないのです」
 私は水羊羹を食べるたびに、この一節を思い浮かべ、みずみずしい桜の葉っぱの上にのった薄墨色の立方体にじっと見入ってしまう。
 いつだったか夏の夕方、旅先の箱根で、外がだんだん暗くなっていくのを眺めていたら、薄墨色の霧のようなものがモワモワーっとやってきてあたりを覆い、私は
(これが夜の正体なのか)
 と、思った。遠くの山は薄墨色の霧に厚く遮られてぼやけ見えなくなるが、足元の草木はまだうすぼんやりと透けて見える。私は、自分が水羊羹の中にいるように感じた。
 それ以来、模糊と霞む水羊羹を見るたびに、私は夏の宵を思い出すようになった。その漠とした夏の闇がスパッと切り取られ、この鋭い切口と尖った角を持つ小さな立方体の中に封じ込められたのである。
 尖った角を、サッと切り取って口に入れると、ひんやりとした角は、舌の上で甘くとろんと溶け、上質な小豆の風味を残して消えて行く。
  だけど、水羊羹は角を切り取っても、なお美しい。そこになめらかな切り口が現れ、切り取られた部分の角もまたシャープにそそり立つのである。切り取っても切り取っても……水羊羹は最後まで鋭い。

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