2010年6月―NO.91
私は、自分が水羊羹の中にいるように感じた。 菊家の「水羊羹」
向田邦子さんの『眠る杯』 (画:森下典子)
先日、ひとりの若い女優さんとお話しする機会があった。その人は、 「私が演劇の世界に入ろうと思ったのは、向田邦子さんのドラマを見て育ったからです」 と、言った。10歳以上も年若いその人と、昭和50年代にNHKで放送された『修羅のごとく』『あ・うん』の話で盛り上がった。 「『あ・うん』の吉村実子が素晴らしかった。よくぞ吉村実子を選んだと思いました」 「フランキー堺もぴったりだったでしょう」 「そうそう!」 などとしゃべりながら、自分も向田邦子さんのドラマを見て、物書きになりたいと思ったことを思い出した。 土曜日の夜、向田邦子のドラマが始まると、一家4人、テレビの前に座っていた。私が23か24歳。弟は高校生。両親はもうすぐ50と60だった。 向田邦子のドラマは、家族そろって見るにはちょっと危険だった。一緒に見ながら心の中でヒヤリとし、クスクス笑ってごまかした。 『阿修羅のごとく』は、4姉妹と家族の愛憎の物語である。肉親ゆえの愛情と残酷さにドキドキした。 『あ・うん』は、戦前の家父長制的な枠組みの中で暮らしている家族の物語だ。表向きは「教育勅語」そのままに「夫婦相和シ、朋友相信ジ」て暮らしているが、本人たちが決して口には出さない背徳的な三角関係のバランスを秘めている。このドラマで「教育勅語」の「夫婦相和シ、朋友相信ジ」が流れるたびに、それはとても危うく淫靡に聴こえた。 人の心の中には、いまだかつて描かれたことのない感情が山ほど埋もれている。向田さんにしか見いだせなかった感情があり、それを向田さんだけが描けたのだと私は思った。 その頃私は、週刊誌でアルバイトをしていた。向田さんが直木賞を受賞した『思い出トランプ』は私のバイブルになった。取材鞄に入れて持ち歩き、幾度も幾度も繰り返し読んだ。『犬小屋』『酸っぱい家族』『花の名前』どの短編を読んでも、ごくふつうの人の中に、狡さ、痛み、嘘、滑稽があった。たった一行の文、たった一言のセリフが、一日じゅう心を離れない。 そんな向田文学の絶頂期に、その人は突然、飛行機事故という衝撃的な形でこの世を去ってしまった。