2010年9月―NO.94
台風の夜に食べた缶詰の味は忘れられない。 ノザキの「牛肉大和煮」、 あけぼのの「あけぼのさけ」
懐中電灯 (画:森下典子)
私の家は一軒家で雨戸があるけれど、ふだんは戸袋の中にしまったままで、ほとんど使っていない。雨戸を閉めるのは、せいぜい一年に1度か2度、台風がやってきた時だけである。 たまに雨戸を閉めると、「非常時」の気分になる……。子供のころ、私はその「非常時」が大好きだった。 「台風が接近しているので、午後の授業は中止になりました。みんな早く家に帰りなさい」 先生が伝えると、急に教室の空気が変わって、みんなバタバタと帰り支度を始めた。大真面目な顔で、「元気でね」「気をつけて帰れよ」とか、言い合って別れた。 父も明るいうちに会社から帰ってきて、 「今度のはでかいぞ」 と、言いながら、テレビもちゃんと放送しているのに、わざわざふだん聴かないラジオを取りだし、ダイヤルを回してピーピーガーガーと雑音のする台風情報を聴いた。 「中心付近の気圧は950ミリバール」 「最大瞬間風速は40メートル」 アナウンサーの抑揚のない声に気分が盛り上がった。 大工仕事の苦手な父が、金槌を手にするのも台風ならではだった。父は雨戸の閉まった窓に、外から板を×に打ち付けた。余計なところまで叩いているのか、ガンガンガンガンと、やけに派手な音がする。 その音を聞きながら、母もまだ明るいうちから夕食の支度をした。日ごろ帰りの遅い父に文句ばかり言っている母が、台風の時だけは、父が「おい、ロウソクがあったな」とか「懐中電灯はどこだ」とかいうのに、「はいはい」と応じていた。 ロウソクが登場するのは、お誕生会かクリスマスケーキの上に飾る時と決まっていたので、私はおなかの中で内臓がよじれるほどワクワクした。