身近な生活の中のおいしさあれこれを1ヶ月に1度お届けします 森下典子
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2010年9月―NO.94

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台風の夜に食べた缶詰の味は忘れられない。
ノザキの「牛肉大和煮」、 あけぼのの「あけぼのさけ」


あけぼのの「あけぼのさけ」
あけぼのの「あけぼのさけ」
(画:森下典子)

「おい、なんか腹減らないか?」
「そうね。今日は夕食が早かったから」
 母は懐中電灯を手に台所に行って、何か持ってきた。
 こういう時に登場するのが、おにぎりと、そして缶詰だった。缶をあけると、甘辛い匂いがぷうんと漂った。牛肉の大和煮だった。
「戦時中は、これが軍の携帯食だったんだぞ」
「ふうん」
 クリスマスみたいだった。ロウソクの灯にぼんやりと浮かんだ父と母の顔が、すごく若かったのを覚えている。
 台風の夜に食べた缶詰の味は忘れられない。冷たいままの牛大和煮は、肉が繊維に沿ってホロホロと砕け、濃厚な甘辛さと牛肉の風味が口に広がった。筋も柔らかく煮えて、ゼリーのような煮こごりが、とろりと甘くおいしかった。
 私は今でも、フランス料理の「コンソメのゼリー」とか「ジュレ」とかを食べるたびに、牛大和煮の煮こごりのうまさを思い出す。
 鮭の缶詰も、台風の夜の晩餐の定番だった。缶を開けると、ぷーんと、甘い脂と魚の匂いがした。輪切り状になった淡いオレンジ色の鮭の水煮は丸ごと柔らかく煮えていて、小骨を気にする必要もなく、栄養全部をもらさず食べられるのだった。
 私が特に好きなのは鮭の中骨の水煮だった。輪切りの真ん中にある太い中骨が芯まで軟らかく煮えていて、そのゴスゴスとしたカルシウムの食感がたまらなかった。
  パッと明かりが付き、停電が復旧すると同時に晩餐は終わる……。父と母はろうそくを消し、「もう寝なさい」と私に言った。翌朝、雨戸をあけると、台風一過の秋晴れだった。

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